中国における琉球関係史跡の紹介

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日本における琉球史跡

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*中国における琉球関係の史跡の場所・写真・概要・参考文献などを紹介します。

*福州の旅行情報をまとめてみました。→福州雑記帳  ※2001-2006年頃の情報です。その後、福州事情は大分変わりましたが、かつての記録として残しておきます。

 

福建省 ふっけんしょう

福州 (ふくしゅう・Fuzhou

福建省の省都。榕樹(ガジュマル)が市域に多数あることから「榕城」とも呼ばれる。閩江下流の北岸に位置し、明清時代の閩県および侯官県を市域とする(面積 121,525平方キロ)。唐代以降、海外交通の要港として発展し、明1470年頃には海外貿易業務を扱う市舶提挙司(市舶司)が泉州から移転された。明末には南明政権の都が置かれたこともある。清末には近代的な海軍や造船の発祥の地となり、清仏戦争(1884-85)ではフランス海軍の攻撃を受けた。1844年、アヘン戦争後の南京条約(1842年)に基づき福州が五港の一つとして開港すると、南部の倉山地区には英人を中心に外国人が居住したが太平洋戦争勃発により退去した。なお1916年の段階で、日本人商店は153、居住の日本人は806人で、二位の英人265人を引き離していた(野上英一『福州』台湾総督府熱帯産業調査会、1937)。

 〔琉球との関わり〕

▼泉州からの市舶司の移転(1470年頃)に伴い、朝貢国である琉球王国の指定入港地も福州となった。但し実際の琉球人の福州渡航は市舶司の移転より早く、柔遠駅(琉球館)も1430-40年代には設けられていたと推測されている。なお明清時代を通じて中国に渡航した琉球人は延べ20万人と推計されている(高良倉吉「補説と参考問題」『琉球王国史の課題』ひるぎ社、1989)。なお東南アジア諸国への渡航者[明代]は延べ3万2千人と推計されている(前掲書)。

琉球処分によって途絶された琉清貿易は、1899年頃に南清貿易(※日清戦争後、沖縄経済振興の梃子として推進された沖縄と中国南部の直接貿易)として再開され、丸一商店(※尚家の資金を投じて首里士族が経営した貿易会社)福州支店が置かれ、大阪支店で仕入れた昆布・衣料・缶詰などと、福州で加工・製造した茶の貿易などが行われたが、日中関係の悪化に伴い通交は途切れていった。

[市内]

台江エリア

福州琉球館(柔遠駅)+地図・河口万寿橋・河口天后宮・球商会館・万寿尚書廟・福州市博物館・閩海関福州衙署・海防庁衙門跡・大廟山・汀州会館

倉山エリア

琉球人墓地(琉球墓苑)+地図・番船浦(渡唐船停泊地)・潘船浦天主堂・天妃舎人廟・林浦・福建師範大学

鼓山エリア・市内その他

鼓山・琉球金将軍廟(鳳洋将軍廟・象洋境将軍廟)/福建省博物館・閩浙総督衙門跡・福建布政司衙門跡・福建按察司衙門・福建巡撫衙門跡・鎮閩将軍衙門跡・塩道(管理塩政道台)跡・貢院跡・南門跡・福州市舶司跡

その他の市内の海外交流史跡 +書店情報

清真寺(真教寺/礼拝堂)・元代ムスリム聖墓・鼓楼区・臨水夫人廟・倉山真武廟・安瀾会館・広東会館・開元寺・華林寺・西禅寺(慶長寺)・崇福寺・蒙古営・古田会館・浦城会館・文廟(孔子廟)・林則徐記念館など

[郊外]

江河口エリア

五虎門・閩安巡検司衙門(閩安鎮)・怡山院天后宮

馬尾エリア

羅星塔(磨心塔)・福建船政建築群(馬尾船政局)

長楽エリア

琉球蔡仙府・琉球蔡夫人廟(懿徳夫人廟)・冊封使謝杰の墓・广石天后宮・鄭和記念館・仙岐顕応宮(天后宮)・三峰寺塔(聖寿宝塔)・梅花古城

定海・平潭エリア

定海琉球人墓・定海鎮・連江県博物館・普光塔(雲居塔)/琉球国駙馬墓跡・平潭県文化館(琉球人墓碑)・平潭旧街

その他の郊外の海外交流史跡

黄檗山万福寺・雪峰寺など

 

湄州島 (びしゅうとう・Meizhoudao

福州と泉州の間にある莆田市に属する湄州湾内の小島(14.35平方キロ)。媽祖昇天の地とされる。なお対岸には媽祖生誕の地とされる賢良港もある。

〔琉球との関わり〕

▼直接的な関係はないが、琉球には中国より媽祖信仰が伝来し、三つの媽祖廟[上天妃宮・下天妃宮(久米村)、天妃宮(久米島)]があった。

州島とその周辺の海外交流史跡

湄州島媽祖廟+地図・賢良港媽祖廟・東山祖祠(三一教堂)・東岩山湄州祖行宮(媽祖廟)

泉州 (せんしゅう・Quanzhou

泉州湾の奥、晋江の河口にある港湾都市(面積11,015平方キロ)。市区の形が鯉に似ていることから「鯉城」、往古の城周に刺桐(デイゴ)が植えられていたことから「刺桐」とも呼ばれる。唐718年に晋江県が置かれ泉州の治所となる。この頃から対外貿易港としての発展が開始し、北宋1087年に貿易管理機関である福建市舶提挙司(市舶司)が置かれた。最盛期は南宋期で、アラブ人をはじめとする多数の外国人の居留地として「蕃坊(闤闠坊)」(聚宝街)が置かれ、その周辺に対外貿易の商業地区が形成された。元代には中国一の南海貿易港として世界的に名を馳せ、マルコ・ポーロやイブン・バットゥータらがザイトン[刺桐]の名でその繁栄を伝えた。ジャワや日本への遠征軍はここから出発した。しかし晋江の河口の土砂堆積による港湾機能の低下などにより明代中期から次第に衰え、1470年頃には市舶司も福州へ移転した。それに伴い外国使節の宿泊所・来遠駅も廃絶された。清代には福州や廈門にその港湾としての地位を奪われ、台湾貿易以外は単なる地方港としての意義しか有さなくなった。

〔琉球との関わり〕

琉球は明1372年に入貢を開始し、泉州を窓口として定期的に明に対して進貢するようになった。泉州では市舶司の管轄を受け、琉球使者は来遠駅に宿泊した。

琉球・久米村の蔡氏の大宗・蔡崇は、1392年に泉州府南安県から移住した人物で、宋代の書家・泉州知府である蔡襄(10121067)の六代目と伝えられている。

泉州とその近辺

市舶司(市舶提挙司)跡・来遠駅跡・海外交通史博物館・泉州天后宮・晋江・洛陽橋(万安橋)・崇武城+地図

その他の市内の海外交流史跡

イスラム聖墓・清浄寺・関岳廟(関帝廟)・泉州府学・開元寺・古船陳列館・府城隍廟・九日山・清源山・草庵摩尼石仏(旧マニ教寺院)など

 

廈門 (あもい・Xiamen)/同安 (どうあん・Tongan

廈門は、泉州と漳州の間に位置する都市(1565平方キロ)。鷺島、嘉禾嶼とも呼ばれる。洪武二十七年(1394)、倭寇への対抗措置の一環として厦門城が置かれる。17世紀に入ると福建沿海では新興のオランダや鄭氏一族が福建沿岸に根拠地を求め厦門占領を企図した。1628年、鄭氏政権が厦門を争奪し、厦門は「鄭氏政権の貿易港」となった。1683年、鄭氏政権が清朝に降伏すると、清朝は海禁を解除し(84年)、中国商船の出航を許可した。廈門には四海関の一つである閩海関が設置され、中国船の南洋(東南アジア)への最大の出港地となった。アヘン戦争以降、南京条約により五港の一つとして開港されると英人など西洋人がコロンス島などに居住し始め、1860年代からは茶の輸出港として繁栄する。その後、茶葉輸出港としては衰退するが、クーリー(苦力)貿易の中心地となった。日中戦争後は日本海軍により厦門は占領され一時日本の軍政下に置かれた。

同安は、廈門の36キロ北に位置する都市。銀城とも呼ばれる。282年に同安県が置かれ、清代まで金門・廈門を管轄下に置いてきた。建国後、廈門の管轄下に置かれた。

〔琉球との関わり〕

1852年、廈門を出航したアメリカの苦力貿易船ロバート・バウン号が、苦力の暴動により石垣島の沖合で座礁し、中国人380名とアメリカ人1名が上陸する事件が起こり、一大国際事件に発展した。この事件に関しては西里喜行『バウン号の苦力反乱と琉球王国 揺らぐ東アジアの国際秩序』(榕樹書林、2001)に詳しい。なお事件の際に死亡した中国人の墓所が石垣島(石垣市富崎)にある。

廈門・同安とその周辺

鼓浪嶼(コロンス)島・胡里山砲台・南普陀寺・廈門大学・同安文廟・同安古窯(汀渓窯)など

 

漳州 (しょうしゅう・Zhangzhou

福建省沿岸部南端の九龍江の河口にある都市12,607平方キロ)。別名を薌城という。唐686年、雲霄西林に漳州が置かれ、786年に現在の位置に移った。唐代から学問が盛んで、南宋・紹煕元(1190)年には朱子学の祖・朱熹が知府として赴任している。16世紀から漳州西南の月港(海澄)は海外貿易港として栄え、対日貿易(密貿易)のほか、ルソン(呂宋)からの銀の受け入れ口となった。清代からは紡織手工業と砂糖生産が中心産業となった。また宗族間の武力衝突(械闘)が多発した。なお泉州と並び台湾への移民が多い地である。

〔琉球との関わり〕

▼琉球・久米村(華人居留地)へは16世紀末から17世紀初にかけて立て続けに漳州人が入籍している。この頃の久米村は、海外貿易の不振(15世紀後半ごろ〜)に伴って衰微・荒廃し人口が激減し、進貢を実施する要役すらも確保が難しくなっていた。このため漳州から来琉した新たな渡来人阮明・王立思・阮国・毛国鼎(全て龍渓県から)―を編入し、その機能維持と振興をはかったのである。

州とその周辺

明清歴史地区(漳州府文廟・漳州石牌坊・漳州府衙門跡)+地図・月港周辺(晏海楼・海澄文廟・海澄城隍廟・豆巷など)+地図・趙家堡・詒安鎮・錦江楼

 

浙江省 せっこうしょう

杭州・嘉興・寧波・鎮海

 

江蘇省 こうそしょう

鄭文英の墓(淮安市) ※岡本弘道氏のブログ「省省流転」内の紹介記事にジャンプします。

 

〔付録〕 広東省の港町史跡

潮州・汕頭・南澳島・汕尾・広州・マカオ

 

[参考文献](※個々の史跡の参考文献はそれぞれの項目に併記してあります。)

●福州・泉州の史跡(全体)に関する主な参考文献

 琉中関係研究会編『中国福建省における琉球関係史跡調査報告書』(同研究会、2009

 ※琉球大学平成20年度特別教育研究経費《人の移動と21世紀のグローバル社会》調査報告書

●福州の史跡(全体)に関する主な参考文献

方炳桂主編『福州老街』(福建人民出版社、2000)[中国語]

福建省地方史編纂委員会編『福建省志』文物志(方志出版社、2002)[中国語]

福州市地方志編纂委員会編『福州市地名志』(海潮撮影芸術出版社、2004)[中国語]

福州市地方志編纂委員会編『福州市歴史文化名城名鎮名村志』(海潮撮影芸術出版社、2004)[中国語]

●泉州の史跡(全体)に関する主な参考文献

泉州歴史文化中心編『泉州海外交通史略』(廈門大学出版社、1995)[中国語]

福建省地方史編纂委員会編『福建省志』文物志(方志出版社、2002)[中国語]

●湄州島の史跡(全体)に関する主な参考文献

福建省地方史編纂委員会編『福建省志』文物志(方志出版社、2002)[中国語]

●漳州の史跡(全体)に関する主な参考文献

佐久間重男『日明関係史の研究』(吉川弘文館、1992)。

李金明『漳州港』(福建人民出版社、2001)[中国語]

福建省地方史編纂委員会編『福建省志』文物志(方志出版社、2002)[中国語]

中国人民政治協商会議・福建省漳州市委員会編『漳州名勝古跡』(海風出版社、2005)[中国語]

曾意丹『漳州府・龍江蕉雨』(福建教育出版社、

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