湄州島とその周辺]  

●湄州島とその周辺

湄州島媽祖廟・賢良港媽祖廟

 

・琉球との関連性を「(小)〜★★★(大)」で示します(※作者の独断によります)。

・琉球とは直接的に関係のない史跡もあります(※日本ほか広く海外交流に関する史跡についても説明しています)。

・自由に見学ができる史跡には「」のマークがついています。「」マークがないところも手続きを踏めば基本的に見学できます。

・見つけにくい史跡や個人旅行では行きづらいと思われる史跡には「」のマークがついています(※これも作者の独断によります)。

 

[湄洲島とその周辺]

●.湄洲島媽祖廟 

びしゅうとうまそびょう

媽祖の昇天の地とされる。媽祖は中国の民間信仰の女神で海上航行の安全の守護神で、脇侍は千里眼・順風耳の二神である。その伝承は、1086年に福建省莆田県に、同県湄洲の林氏の女が郷土神として林夫人の名で祭られたことに始まるという。1123年以後にわかにその霊験が喧伝されて、同年に順済と封号され,1160(紹興30)年には霊恵夫人・昭応夫人,1281年(至元18)には天妃、1684年には天后と勅封が重ねられた。元・明の時代には,中国の沿海部において広く信仰されるにいたった。明の中期ごろからは道教の正統神の地位も与えられ、天妃娘々と呼ばれた。閩南での女神の尊称である媽が訛って媽祖といわれたようであるが,閩北では娘媽と称された。この信仰は、中国人の海外移住とともに台湾・琉球・東南アジア各地・日本などに伝えられた。日本では鹿児島県坊津・長崎のほか茨城県水戸市・北茨城市・青森県大間村などで日本の航海神である弟橘媛信仰などと混淆しながら天妃として祭られている。媽祖は当初、航海など海に携わる事柄に利益があるとされ、福建・広東など中国南部の沿岸地方で特に信仰を集めていたが、時代が下るにつれ、次第に万物に利益がある神と考えられるようになった。

 

※莆田市内から文甲港まで車で45-60分、文甲から湄州島までフェリーで約30分(一時間毎)、高速艇で約15分(30分毎)。

掲載写真撮影日2006/11/03/最終調査日2008/12/24

 

湄洲島媽祖廟MAP

 

●.賢良港媽祖廟 

けんりょうこうまそびょう

湄州島の対岸(大陸側)の莆田県忠門鎮港里村にある。媽祖の生誕の地とされる。宋代の創建で、1421(明・永楽19)年に勅を奉じて修築された。さらに清・乾隆年間に台湾の安平鎮の官民が資金を募って修築した。文革によって破壊されたが1988年に復元された。廟内には宋代の木製の媽祖像および1786(清・乾隆51)年の『重建天后祠記』・『歴朝褒封徽号』の石碑がある。廟のそばには古代(宋代か)の八角井と埠頭がある。

 

掲載写真撮影日・最終調査日2006/11/03

 

その他の郊外の海外交流史跡

東山祖祠(三一教堂)                                                                     

莆田市勝利北路東山祖祠(東岩山公園の勝利北路側)。明代莆田人である哲学家・林兆恩(1517-1598年)が創立した民間信仰・三一教の総本山。三一教は夏教ともいい「道釈帰儒、儒帰孔子」を教義とする。現在、国内外に信徒約30万人。

〔参考文献〕林国平・佐藤公彦「福建省の三一教の現状:調査と研究」『中国研究月報』48-31994年。

 

掲載写真撮影日・最終調査日2008/12/24

東岩山湄州祖行宮                                                                       

東山祖祠の後ろに隣接する天后宮。宋代の樟木雕媽祖像がある。乾隆県志によれば、この像は1157(宋・紹興27)年に創建された白湖廟(闊口)にあったが、1354(元・至正14)年に文峰宮に移されたという。1950年に東岩山に移され、今に至る。

 

掲載写真撮影日最終調査日2008/12/24

 

 

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