[福州市内]

 

台江エリア

福州琉球館(柔遠駅)+地図・河口万寿橋・河口天后宮・球商会館・万寿尚書廟・福州市博物館・閩海関福州衙署・海防庁衙門跡・大廟山・汀州会館

 

・琉球との関連性を「(小)〜★★★(大)」で示します(※作者の独断によります)。

・琉球とは直接的に関係のない史跡もあります(※日本ほか広く海外交流に関する史跡についても説明しています)。

・自由に見学ができる史跡には「」のマークがついています。「」マークがないところも手続きを踏めば基本的に見学できます。

・見つけにくい史跡や個人旅行では行きづらいと思われる史跡には「」のマークがついています(※これも作者の独断によります)。

 

●.福州琉球館(柔遠駅) ★★★

ふくしゅうりゅうきゅうかん(じゅうえんえき)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Ryukyukan.JPG

福州市台江区琯後街21号(南公園の近く)。琉球からの渡唐使節の滞在施設。進貢廠(貢物を一時的に預ける場所)と共に福建市舶司の付属機関として、1470年頃、市舶司が泉州から移転した際、城外東南の水部門外の地に建設された。場外に設けるのは進貢する外国人に省城内部を窺わせないための昔からの慣例という。館の敷地面積は約5600平方メートルで、内には前庁・後庁・臥房などの施設の他、天妃(媽祖)及び土地神の廟、中国で客死した琉球人の霊を祭る位牌堂(崇報祠)、中国人スタッフの公館などがあった。柔遠駅は初め庁舎として設けられたが、後には琉球館の名が示すように、琉球人が独占使用する宿館となった。琉球人の日中の出入りは自由で、その滞在費は基本的に中国側が負担した。清代に七回大規模な改修が行われたが、現在その遺構は全て失われている。琉球王国崩壊の後、一時亡命琉球人の住処になったが、その後は明治末から昭和初期にかけて沖縄出身者が茶工場を営んでいた。現在の建築物は1992年に建てられたもので、福州の民居の様式で、壁が部屋より高く防火・防犯の機能を重視したものである。中は小さな博物館になっており、清代に福州で死亡した琉球人の墓石などが展示してある。なお、琉球館は閩江の支流である瓊河(けいが)のほとりにあったが、現在は河の大半は地下にもぐり、僅かに万寿橋近辺に面影を留めるのみである。

 

◆収蔵・展示されている墓碑は以下の通りである。

1「琉球国/乾隆二十六年辛己/久米府伊波筑登之/親雲上兪諱邦□墓/四月二十八日卒」(1761年)

2「琉球国/乾隆乙巳年/小唐船水手/渡嘉敷間切/同村小嶺墓/七月十九日卒」(1785年)

3「琉球国/乾隆五十一年丙午/接貢作事渡嘉敷/間切同村仲村渠/筑登之親雲上墓/十一月廿八日卒」(1786年)

4.「琉球国/乾隆五十二丁巳年/小唐船二吾主/西村喜納筑/登之親雲上/墓/地長二丈二尺横一丈/四尺七月三十日卒」(1787年)

5.「琉球国/嘉慶六年辛酉四月初二日卒/存留奥間里之子親/雲上毛公諱超群墓/地長二丈五尺横一丈八尺」(1801年)

6「中山国/嘉慶十二年丁卯/封王船水手東村/仲村渠筑登之/十月二十七日卒」(1807年)

7.「琉球国/大清道光元年/小唐船水主渡地村/宮城墓地長一丈五/尺横丈正月吉日」1821年)

8.「琉球国/同治元年壬戌十一月初九/日卒大唐船官舎内證周/氏大見謝筑登之墓地長/一丈六尺活八尺」(1862年)

9.「琉球国/光緒三十年甲辰/頭郡名護間切安/和村古波蔵牛墓/九月初十日死」(1904年)

20112月の時点では、1479は展示されていなかった。

 

〔参考文献〕米倉二郎「福州の琉球館」『史林』22-11937〈※往時の琉球館の写真が載っている〉。小葉田淳『増補中世南島通交貿易史の研究』臨川書店、1993。多和田真助「福州琉球館物語」ひるぎ社、1989〈※一般向け〉。梅木哲人「福州柔遠駅と琉球・中国関係」『中国福建省・琉球列島交渉史の研究』第一書房、1995。深澤秋人「福州琉球館の構造と改修」『琉球王国評定所文書』16、浦添市教育委員会、2000。上里賢一『閩江のほとりで』沖縄タイムス社、2001〈※一般向け。琉球館以外の福州・泉州の琉球関係史跡についても詳しい説明がある〉。

※周辺再開発に伴い修理・改装中である(20112月)。

[掲載写真撮影日2006/11/01/最終調査日2011/02/15

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Ryukyukan_map.JPG

 

●.河口〔小〕万寿橋 ★★

かこう〔しょう〕まんじゅきょう

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Kakoumanjyukyo.JPG

万寿橋は市内中心部の南公園の近くを流れる瓊河(けいが)にかかる石橋で、琉球館のすぐそばにある。1668(康煕七)年に鼓山の僧・成源と里人・柯応ァが共同で資金を募集して建設した。琉球の使節はこの付近で船を降り柔遠駅(琉球館)に入った。橋の前にあった「河口万寿橋記」の石碑は現在于山に移されている。なお舟形(菱型)の橋脚は水流の衝撃を緩和するための工夫とされている。

〔参考文献〕同上。

※周辺は再開発が予定されている。

掲載写真撮影日2006/11/01/最終調査日2011/02/15

 

●.河口天后宮

かこうてんこうきゅう

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Kakoutenkoukyu.JPG

河口万寿橋のそばにある天后(媽祖)を祀る廟。元代に創建され、成化年間に重修された。中華人民共和国成立後、倉庫として利用され、内部構造は殆ど撤去されてしまった。近年、国内外からの寄付で修復された。祭られている媽祖像は軟身媽祖像で着せ替え式である。

※周辺は再開発が予定されている。

掲載写真撮影日2006/11/01最終調査日2011/02/15(外部確認のみ)

 

●.球商会館 ★★★

きゅうしょうかいかん

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Fuzhou_qiushanghuiguan.JPG

福州市台江区第五小学中心。1839(道光十九)年に「十家球商」が合資で再建したという。早期は天后(媽祖)を祀っていたため「瓊水球商天后宮」と呼ばれていた。球商は琉球の貿易品の調達や便宜を図る現地の牙行(仲買業者)のことで、明末に員数十人と定められ、「十家牙行」が成立した。下・李・鄭・林・楊・趙・馬・丁・宋・劉の十家があったとされる。

〔参考文献〕西里喜行「中琉交渉史における土通事と牙行『球商』」『琉球大学教育学部紀要』501997

 

掲載写真撮影日・最終調査日2001/10/19

 

●.万寿尚書廟 ★★

まんじゅしょうしょびょう

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Fuzhou_Shangshumiao.JPG

福州市台江区下杭路[東側の路口付近](本来は塢尾街9号にあったが再開発に伴い移転した)。元軍の進撃に最後まで抵抗した地方官・陳文龍1032-1277の福州の官邸の跡に、明初に建設された廟で、陳文龍が神格化した水部尚書公を前殿に祀り、後殿に天后(媽祖)を祀っている。なお陳文龍は水利に貢献したため、死後、明朝より水部尚書に封じられ、航海の神として信仰を集めるようになった1998年、修復中に四枚の碑文が発見され、そこには1802年にこの廟を修復する際に琉球人が献金をしていたことが記されていた。

*以下は碑文の該当箇所の抜粋

「琉球大船直庫比嘉筑登之親雲上番壹拾員、大船内佐事等拾名番壹拾員 水手五名錢壹仟文、琉球大船直庫水手肆拾名番壹拾員、琉球直庫長嶺親雲上番壹拾員、大廳作事等九人番玖員、定加子共六人錢壹仟文、水主共二拾六名錢弐仟文、琉球封王直庫頭號弐號船番弐拾柒員」

掲載写真撮影日2001/10/19最終調査日2008/12/22

 

●.福州市博物館 

ふくしゅうしはくぶつかん

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Fuzhou_citimuseum.JPG

市の対外交流施設の一つとし2000年にオープン。建物は福州市の民家と船のイメージを取り入れており、一部5階部分を除くと3階建てである。展示内容は南宋地帯の発掘物のほか文物を中心に約9000点である。福州市の貝器、住居跡など古代の歴史から始まり、市内で発見された独木舟(復元)、唐五代期、宋元期、明清期などの建物や経済、政治及び社会生活全般について紹介している。目玉は南宋古墓(福州北郊茶園村宋墓)から発掘された男女1体の遺体(ホルマリン漬けになって透明のケースの中に仰臥)とその副葬品のコーナー。定海湾の沈船からの出土品の一部(宋元の陶磁器など)も展示されている。民俗コーナーでは一般市民生活用具、美術工芸品などが多数展示される。館内の写真撮影は禁止。

掲載写真撮影日2003/07/01最終調査日2006/11/01

 

●.閩海関福州衙署 

びんかいかんふくしゅうがしょ

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Fuzhou_minhaiguan.JPG

中州島の東南端[写真右端]。解放大橋の上から眺めることができる。中州自体は宋代に出現した。乾隆『福州府志』に「督理閩海関署、在府城外、南台中洲」とある。1684康煕二十三)年に設置された。

 

掲載写真撮影日・最終調査日2008/12/22

 

●.海防庁衙門跡 

かいぼうちょうがもんあと

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Fuzhou_haifangting.JPG

台江中心第四中心小学(延平路)。「海防前」の呼称が残る。1734に福州府治から、南台霞浦街へ移転したとされる。隣に疫病の神である五帝の廟がある。なお、この辺は清代において商業の要衝であり、延平会館などがあった。

 

掲載写真撮影日2003/07/05最終調査日2008/12/22

 

●.大廟山 

だいびょうざん

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Fuzhou_damiaoshan.JPG

台江区の福州第四中学(福四中)。昔はここにも閩江の支流が流れており、漢代の閩越王がここで釣りをしたという伝説があることから「釣龍台山」と呼ばれた。明代に入ってから大廟ができ大廟山と称されるようになった。『榕城考古略』によれば洪武八年にここに「琉球・日本・渤泥山川之神が祀られた」という。六角の「釣龍井」などが現存している。清代には既に荒廃していたという。

 

掲載写真撮影日・最終調査日2003/07/05

 

●.汀州会館(長汀会館) 

ていしゅうかいかん(ちょうていかいかん)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Fuzhou_tingzhouhuiguan.JPG

台江区白馬路沿いにある。現在は往時の四柱のみが残り、それを利用して復元されている。福州市台江区社会力量弁学管理弁公室という公の施設で厳重に施錠され内部には入れない(※外から見学することは可能)。昔は少し離れたところにあり天后が祀られていた。この会館(天后宮)に1838年に来琉した冊封使・林鴻年が帰国後に奉納した碑があったが、現在は紛失している。

*以下は碑文の該当箇所の抜粋

「嘉慶五年、加封重慈篤佑天后聖母元君、道光六年江蘇巡撫陶□(サンズイ+尌)奏賜安瀾利運、道光十九年冊封琉球正使脩撰林鴻年奏賜沢□(潭−サンズイ)海宇等額即媽祖、海舟危難有祷必応…」

〔参考文献〕東喜望「中国・琉球の国交と冊封使来琉の陸・海路」『中国福建省・琉球列島交渉史の研究』第一書房、1995林祖良編撰『媽祖』福建教育出版社、1989

掲載写真撮影日2003/06/03最終調査日2008/12/22

 

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