〔付録〕 広東省の港町史跡

潮州市:市内(広済橋・天后宮・開元寺・学宮・北閣仏灯など)、所城鎮、柘林鎮、龍湖古寨

汕頭市:市内(廈嶺媽宮・老媽宮・百貨大楼・永和街・海関址)、樟林古港

南澳島:宋井・総兵府・鄭芝龍坊など

汕尾市:馬宮街道(媽祖廟)

広州市:市内(沙面・十三行路・粤海関・石室・懐遠駅・懐聖寺・北京路・珠江)、南海神廟、黄浦村、竹崗外国人公墓、威遠砲台

マカオ(澳門):媽閣廟、マカオ海事博物館、セント・ポール天主堂、聖アントニオ教会、東方基金会、モリソン教会の外国人墓地、蓮峯廟

+広州市内の書店情報

200712月に管理人が調査した粤東沿海部の史跡を取り上げています。

●潮州市

広東省東部、韓江デルタの北部に位置し、南シナ海に面している。また東北は福建省、南西は広東省汕頭と接している。331年に東晋が設置した海陽県の県城が現代の潮州市である。以後この地区は粤東地区(広東東部)の政治・経済・文化の中心であったが、1860年に汕頭が対外貿易港として開港して以降はその地位を汕頭に譲った。

市内

広済門

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou1.JPG

潮州の城壁が現在の規模に達したのは宋代である。明初1370年に大規模に改築された。現在は韓江に面した約2q分の城壁と上水・竹木・広済・下水の4つの城門(本来は7つ)のみが残っている。最も壮麗なのが広済橋に面した潮州城東門、すなわち広済門である(広済楼・韓江楼・東門楼とも言う)。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

天后宮

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou2.JPG

広済門を入ってすぐ右にある。創建年代不明。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

開元寺

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou3.JPG

開元路32号。開元26738年、玄宗は十都市を選んで寺院を建立することを命じた。これらの寺は当時の元号を用いて “開元寺”と称した。福州開元寺・泉州開元寺の他に、河北の邢台開元寺・定州開元寺などがあり、潮州開元寺もその一つである。元代に開元万寿禅寺、明代に開元鎮国禅寺と改名され、現在に至る。数次にわたる改築を経ている。主な建築は金剛殿・天王殿・大雄宝殿・蔵経楼・観音閣・地蔵閣などで、唐代の石経幢、宋代の大銅鐘1114年)、元代の石香炉(1325)、明代の潮州木彫りによる千仏塔、清朝の乾隆帝より下賜された雍正版『大蔵経』などの文物が保存されている。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

学宮(海陽県儒学宮)、潮州博物館

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou4.JPG

昌黎路の西端に位置し、紅学や学宮とも呼ばれる。南宋の紹興年代に創建され、景炎3(1278年に一度焼失したが、明の洪武2(1369年に再建された。孔子とその弟子が祀られている。主要な建築物である大成殿はほぼ完全に、明代初期の広州殿堂建築の特徴を残している。現在は博物館となっており潮州各地から集められた碑文などを見ることができる。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

北閣仏灯

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou5.JPG

環城北路と環城東路とが交わる位置にある金山の一角。宋代に創建された楼閣で明代に整備された。言い伝えでは、楼閣の前の仏灯は夜の間点灯し韓江航行の道しるべになっていたという。清初、清軍の占領により大きく破壊されたが、民国期以降、整備・修復された。明代の城壁の一部を見ることができる。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

広済橋(湘子橋)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou6.JPG

“世界最古の可動橋”(約518m)であり、また河北省の趙州橋・福建省の洛陽橋・北京の盧溝橋とともに「中国古代4大名橋」と呼ばれている。創建は宋代1170年。当初は86の木造船を連ねた浮橋だったが、数年後に水害で流されたため54年の歳月をかけて西岸から石造りの橋を建設し、両岸から石橋を伸ばして中心部のみを浮橋にし、毎日一定時間に開放した。解放後には鉄筋の橋梁を持つ橋に改められ、近年さらに大規模な修復が行われた。橋の向かい側には宋代の筆架山古窯などがある。筆架山に関しては広東博物館編『潮州筆架山宋代窯址発掘報告』(北京:文物出版社1981年)[中国語]などを参照されたい。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

〔参考文献〕

蔡紹彬『潮州外内八景』香港東方文化中心、2004年。 [中国語]

 

郊外

所城鎮:広東省の東端にある(福建省に接する)潮州市饒平県に属する。南で柘林鎮と、西で黄岡鎮と連なる。50.9平方q。

大所城(古哨大城所)址                                                                                                                    

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou_k1.JPG

所城鎮の小金山南側にある。明初1394年に百戸の侯顧実が防倭を主目的として創建。明・清の海防軍事の拠点となった。東西南北に四つの城門があり、城門の上には二重の楼がある。花崗岩で作られた城内には三街六巷がある。『潮州府志』によれば「正千戸2員、副千戸3員、百戸10員、鎮撫1員、旗軍1225員が置かれ、軍器5457件が備えられていた」という。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

柘林鎮:饒平県の南端にあり、西南部に県内最大の柘林港を擁する。福建に抜ける古い道があり、そこに沿って以下の史跡がある(※道の手前から順に記す)。

天后宮                                                                                                                                           

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou_k2.JPG

明代、鎮の西北(鳳山南麓)に海に臨んで創建された。乾隆年間・宣統年間および19872000年に修築された。嘉慶241819年の碑文がある。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

白雀寺                                                                                                                                           

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou_k3.JPG

南宋末年の創建。元は石嶺が林立していたことに由来して「林寺」という名称であった。明代1603年に大殿を重修。現在の建物は真新しい。明代に浙江天幢の奇主僧コ祥和尚が描いた十八羅漢像や、明代に鋳造された千斤の銅鐘、宋代に景徳鎮で作成された祭紅大瓶などがあるというが、一般公開はされていない。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

鎮風塔

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou_k4.JPG

柘林鎮東北約qの位置にある風吹の峡谷口にある。元代に創建された22m、七層八面の塔。柘林は海に面しており風潮の被害が多かったので、これを鎮めるために作られたという。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

風吹ュ(峠)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou_k5.JPG

鎮風塔から徒歩で10分ほど丘陵を登ったところにある広東と福建の往時の省境。関所があった。今も古道が残る。石刻群があり、明・万暦9(1581年に閩広副総兵の晏継芳が題字した「閩広遠観」のほか、「閩粤一覧」・「天風海濤」等、湖北・四川・貴州・吉林・江西などの文人の題刻がある。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

龍湖鎮:韓江中流の西岸、潮安県南部に位置する故鎮。

龍湖古寨                                                                                                                                        

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou_k6.JPG

定期市から発展した集落。南宋期に成立した。韓江の出海口に位置する潮汕平原の貿易埠頭としての役割を担った。中央の直街の東側の三街と西門の六巷とで「三街六巷」を形成し、潮汕の伝統的な古建築群がよく残されている。同族村ではなく多姓集落で、往時は「林」・「黄」・「許」など50余りの姓の人々が暮らしていたが、現在は20姓ほど。明代中期以降、進士・挙人53名を輩出し、清末には「方伯第」、「進士第」、「探花府」などと名付けられた100余の宗族祠堂・名宦府第・商売紳豪宅を有するようになった。土地改革で周辺の農民に寨内の家々が割り振られた際、彼らに内部の装飾品などが持ち去られたそうであるが、文革期の被害は少なかったとのことで、住居の外側の装飾などは現在も比較的よい状態で残されている。

龍湖古寨は南・西・北面が池(池塘)であったため1558年までは「塘湖」と呼ばれていたが、この地域出身の官僚・劉子興1541年進士)が、福建安察使に任じられたものの身内の不幸のため故郷(=龍湖古寨)で喪に服していた時に、倭寇の攻撃に備えるため住民を組織して周囲に城壁を築き寨(とりで)としたことから、形が龍に似ているとして「龍湖」と呼ばれるようになった。つまり人々が既に暮らしていた村に防倭のための要塞が築かれたのであり、これはこの古寨の大きな特徴の一つと言える。なお北門の外には、寨の創建の経緯を記した「塘湖劉公禦倭保障碑記」が現存している。

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

天后宮(龍湖)                                                                                                                                 

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/chaozhou_k7.JPG

古寨の南門付近にある。明代の創建。元々は古寨内の別の位置にあったが手狭になったため、清・乾隆年間に現在の位置に移動した。媽祖宮・姑母宮などとも呼ばれる。中国の門神は男性が多いが、この天后宮は女性の門神であり非常に珍しいという。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

〔参考URL

潮汕民俗網 [中国語]

汕頭大学図書館・潮汕特蔵網 [中国語]

 

●汕頭市

潮州市の北にある都市。東は南シナ海に面している。榕江とその支流が市内を流れ、その河口には媽嶼島・徳州嶼などの島々が点在している。元代に大きな漁村が形成され厦嶺と呼ばれた。清の康熙年間に沙汕頭砲台が築かれ、雍正年間には汕頭と呼ばれるようになった1756年(乾隆21年)、清朝は媽嶼島に常関を設立した。第二次アヘン戦争後の1861年に対外貿易港として開港され、広東省東部の玄関口となった。

市内

廈嶺媽宮

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou1.JPG

厦嶺路。光華小学校の隣。明初1369に創建された。「厦嶺古廟」の石碑などがある。厦嶺地区は汕頭の開発とともに掲陽・潮安方面へ内河を航行する船舶の停泊地となった。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

老媽宮

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou2.JPG

升平路。関羽廟が隣接。清代嘉慶年間の創建。開港以前は、この地点は砂浜で小規模な商船や漁船が集まる場所であった。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

百貨大楼

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou3.JPG

升平路・国平路が交わるところにある「小公園」のそば。元は南生公司。1932年、華僑からの出資により建設。当初はテナントとして蘇広日雑百貨・中央酒楼・中央旅社が入っており、広東東部最大の商業施設として「銷金窟」呼ばれた。1956年に国営百貨公司と合併し百貨大楼に改称された。80年代以降、汕頭東部の開発により西部旧市街の人口が東へ流れると経営が悪化し、20073月、経営停止。まもなく改築される。周辺には数多くの西洋建築風の騎楼(伝統的アーケード)が残るが、老朽化が甚だしく過疎が進んでいるようであった。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

永和街

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou4.JPG

升平路のすぐ南の小道(升平路と永泰路の真ん中にこの両道と平行に通る小道)。再開発の波により既に一部分は撤去されている。旧金融街。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

汕頭海関址

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou5.JPG

外馬路2号。道の突き当たり(汕頭港のそば)。1685の粤海関成立に伴い庵埠正税口がおかれた1853年、媽嶼島に潮州新関が置かれた。1860年から税務司の管轄下に入る。現在も海関なため一般人の立ち入りは禁止で写真撮影も不可であった。新しい建物の陰から往時の建物の端っこがチラリと見られるのみ。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/24

〔参考URL〕前掲に同じ。

 

郊外

東里鎮:韓江の支流の出海口で、潮安・澄海・饒平・南澳の交わるところにある。面積は35.82平方q。

樟林古港                                                                                                                                        

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou_k1.JPG

潮州の外港であった樟林港は1556年に開港し、明末清初には粤東第一の大港に成長していった。特に康煕23年の海禁解除後は海上貿易の要所となり、乾隆年間から咸豊年間にかけて粤東の対外貿易の重要な港口として機能した。当時粤東・閩西の人は南洋に出かける際、多くはここから「紅頭船」に乗って出海したという。例えば1858年以前に暹羅(シャム)には15万人の華僑がいたが、その60%は樟林港から出海した。なお嘉慶年間にその関税収入は広東省の五分の一を占めていた。乾隆年間に全盛期を迎えた樟林港は、「八街六社」を有する規模となった。古港の付近は西塘風伯廟・新興街客桟・天后宮など今も多くの遺跡が残る。後に砂が湾内に堆積したことにより、樟林港は汕頭港に潮州の外港としての地位を譲った。現在、往時の紅頭船の出海地点には「樟林古港」の記念碑が建てられ、その向かいの建物内に小さな歴史展示室がある。

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

天后聖母廟                                                                                                                                    

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou_k2.JPG

潮汕地区では最大規模のものと言われる。皇宮式の建築で、清・乾隆121787年に創建された。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

新興街                                                                                                                                           

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou_k3.JPG

1802(清・嘉慶7年に増建された倉庫街(貨桟街)。樟林港の最盛期のものである。現在54の倉庫が残っている。創設者は林五という洋船商であった。樟林には、林泮という洋船商もおり、林五と並ぶ勢力を持っていた。共に福建省莆田県の茶商家出身である。この二名は1805嘉慶10に通匪(私通海盗)として弾劾され、林五は処刑された。

 

※二人の林の事件に関しては以下の論考に詳しい。

黄光武「嘉慶十年澄海二林通匪案」『潮学研究』5、1996

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

南盛里                                                                                                                                           

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shantou_k4.JPG

俗称「布袋囲」。樟林港の出海口の沖積地帯で、四面を水に囲まれている。ここにはシンガポール華僑の藍錦生が1900年に出資建設した近代の民居群がある。潮汕地方の特色を色濃く有する建築群である。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/23

〔参考URL〕前掲に同じ。

 

●南澳島

広東・福建の二省境界海上にある島で、広東省唯一の海島県である(汕頭市に属す)。明・万暦31575年に南澳副総兵が設置され、清・康煕241685年に総兵が置かれた。汕頭港外の「莱蕪」港から南澳島の「長山尾」埠頭までフェリーで約1時間。

海防史博物館

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao1.JPG

県城中興路文化広場の北側。かつて文廟があった場所である。「先住民の活動」「南宋皇室、南澳に到る」「戚継光・兪大猷の連合軍、倭賊を平らげる」「明代総鎮府の設立」「鄭成功の抗清復台」などのテーマ展示がある。展示品としては、総兵の肖像画、南澳出身の官僚・軍人の遺品などがある。多くは子孫が保管していたものである。写真は南澳(深澳鎮)出身の澎湖水師副将・蔡安国の子孫が寄贈した「誥封蔡安国之母寥氏詔書」(清代)。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

后宅武帝廟

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao2.JPG

明代の創建。現在の建物は新しい。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

金山天后宮

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao3.JPG

后宅の金山北側。明代の創建。現在の建物は新しい。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

宋井・太子楼遺跡

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao4.JPG

雲澳鎮澳前村の東南側。宋井は、南宋・景炎元1276年に元兵に追われた陸秀夫・張世傑らが幼帝を連れて南澳に駐屯した際に掘られた三つの井戸の一つと伝えられている。太子楼はその仮託跡と伝えられている。なお宋井の南東の海域(写真)では明代の沈船「南海二号」の存在が確認されている。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

陸秀夫墓

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao5.JPG

青澳鎮南山。南宋の幼帝とともにこの島に逃れてきた丞相・陸秀夫の墓。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

海上漁村

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao6.JPG

深澳鎮の狩嶼湾周辺などに分在する魚介類の養殖場。このあたりは深澳鎮の玄関口であり、福建と広東を結ぶ交通路の要衝であった。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

総兵府(総鎮府)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao7.JPG

深澳鎮にある明清の副総兵・総兵の駐屯地。明・万暦41576年、南澳副総兵の設置とともに副総兵の晏継芳が創建。南澳城の中心に位置した。内部は博物館になっており、閩粤交界碑など多くの石碑がある。東南側に城隍廟・関帝廟・南澳城壁(部分)などがある。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

深奥天后宮

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao8.JPG

明・万暦4(1576)年に副総兵の晏継芳が建てた。明・万暦22(1594)の「南澳山種樹記」の石碑が残る。近年、全面的に改修された。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

鄭芝龍坊

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao9.JPG

深澳の石亭街。鄭芝龍が明の官職を得た後、その功績を表して、崇禎161643年年に饒平県の知県・万邦俊が建てた。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

雄鎮関

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/nanao10.JPG

雲澳と深澳の境界。明・万暦131585年に副総兵の劉大が建て、万暦481620年に副総兵の何斌臣が建て増しした。以後、何度も修築された。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

〔参考文献〕

南澳県文化体育局ほか編『南澳県文物志』天馬出版、2004年。[中国語]

 

●汕尾市

汕頭から160キロ西(汕頭と広州のほぼ真ん中)にある南シナ海に面した都市。明清時代は恵州府に属した。

馬宮廟(馬宮街道)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/shanwei_magong.JPG

海豊県馬宮鎮(馬宮街道)の中心部にある。明の正徳年間の創建。廟内に清代・嘉慶181813年と道光181838の石碑が残るが、廟自体は新しい。向かいに城隍廟が、100mほど先に馬宮港がある。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/26

 

●広州市

広東省の省都。北京市・上海市に次ぐ中国第三の都市。羊城・花城・穂城の別名がある。古代から南海貿易の中心地として発展し、唐741年には最初の市舶司が設置され、多数のイスラム教徒やユダヤ人が往来し、外国人居留区「蕃坊」も設置された。海禁政策を取った明代でも広州は南海諸国の朝貢の入港地となった。清代に入って以降、遷界令の解除に伴って廈門などの五港の一つとして開港され、海関が設置されて民間貿易を管理した。これによって外国商船(ヨーロッパ各国の東インド会社船およびインドからの地方貿易船)は五港へ自由に来航できるようになったが、乾隆221757年からは外国商船の入港は広州一港に制限された。

市内

沙面

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong1.JPG

珠江の岸の一部を運河で切り離して造った台形の人工島=沙面島。外国人商人の居住区であったが、アヘン戦争後の1861年に締結された「沙面租界協定」により、西部をイギリスが、東部をフランスが租界(治外法権を持つ独立行政区)とした。ジャーディン・マセソン商会などもこの地域に拠点をおいた。写真は1911年に創建された台湾銀行広州支店(沙面大街26号)。

 

[掲載写真撮影日2007/12/05最終調査日2007/12/27

十三行路

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong2.JPG

旧ファクトリー(外国人居留地、夷館)の背後を東西に走る街路。外国人の接待や公行商人(行商)の会議に用いられる公所が設けられていた。公行は中国の特許商人で、西洋人との貿易を独占する代わりに、西洋人に対する徴税を請け負った。俗に十三行と呼ばれたが、必ずしも13名いたわけではない。写真は道の先端にある十三行のモニュメント。

※現在は繊維製品の卸問屋と小売店が密集し人でごった返している。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/27

粤海関(洋関)旧址

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong3.JPG

茘湾区沿江西路にある。

鄭氏台湾の接収に伴う海禁解除により対外・国内両者を含む海上交易の管理機関として、1685に江蘇・浙江・福建・広東の東南四省に海関が置かれた。海関は基本的には関税の徴収機関で、粤海関(粤海関監督公署=俗に言う「常関」)は広州城の五仙門の内側の塩政院の旧址(現在の海珠広場の広東省貿易中心大楼の附近のそば=天字碼頭のあたり)にあった。

アヘン・アロー戦争後、広州は英・仏の連合軍が占領し、海関は西洋人相手の執務も行うようになったため、租界地である沙面島の側の現在の六二三路の附近に二階建ての粤海関税務司公署が建てられ、対外貿易を含む一部の徴税機能を担うようになった。その後の1860(咸豊10)年に、その付近(現在の粤海関旧址の場所)に粤海関税務司が正式に建立された。俗に言う「洋関」である。現在の大楼は、1914(民国3)年の着工、翌年の竣工。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/27

石室(聖心堂大聖堂)、両広総督衙門址

準備中

一徳路。アヘン戦争終了後の1863、両広総督衙門の敷地の一部がフランスのカトリック教団に貸し出され、そこにパリのノートルダム寺院をまねた教会=聖心堂大聖堂が建てられた(1888年の完成)。花崗岩で作られたため「石室」という別名を持つ。中国国内で最も高い尖塔を持つゴシック建築。

※外観だけなら常に見学可能。

[最終調査日2007/12/27

宋代市舶亭・海山楼旧址

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong5.JPG

 市舶司は唐代に初めて設置され、船舶の出入港・貨物・税徴収を管理した。宋代には、広州のほか杭州・明州・密州・秀州に置かれた。元代には市舶提挙司に変更。明代嘉靖年間までに広州以外は廃止された。

 明代の広州市舶司について、万暦『広東通志』(巻7、藩省志7、「公署」)に「広東市舶提挙司、在府城外西南一里、即宋市舶亭海山楼故址、洪武初開創。」とあり、宋代の「市舶亭」および「海山楼」の遣址にあったとする。その後、万暦年間に市舶司は「承宣街(現在の北京路北端)の右」に移転したという(万暦『広東通志』)。

 宋代の「市舶亭(と海山楼)」の場所は、『大徳南海志』(巻10所引旧志)に「市舶亭、在鎮安門外」とある(※榎本渉氏のご教示による)。鎮安門は明清の大南門である。現在、市舶亭と海山楼その場所は北京南路と東横街(高第街という説もある)の交わるあたりに比定されている(参考:『広東海上絲綢之路史』中国評論学術出版、第七章)。従って万暦『広東通志』等の記録に拠れば明代の市舶司は、このあたりにあったということになる。

 ただし、嘉靖年間成立の『嶺海輿図』では、(明の)市舶司は帰徳門(西南の門)の外に書かれており、上記の場所とは一致しない。また明代の市舶司の場所は、元代の市舶亭の旧址にあったと考えられ、とすると「宋代の市舶亭元代の市舶亭=明代の市舶司」という位置関係を、明代において「宋代の市舶亭=明代の市舶司」と誤認した可能性が高いと考えられる。とすれば明代の市舶司は、宋代の市舶亭の旧址(大南門外=北京南路と東横街の交わるあたり)ではなく、帰徳門(大徳路と解放南路の交差点)の南に一里ほど行った箇所のどこかである可能性が高いだろう。なお宋代の市舶司は城内にあったようである(『輿地紀勝』巻89)[※下段落は榎本渉氏のご指摘による。]

 

*写真は北京路と東横路の交差する辺り。現在、記念碑などは何もない。

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/27

懐遠駅

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong6.JPG

康王南路沿い(八十八甫路と和平中路の間)。奥に「懐遠駅」という小巷がある。広州の懐遠駅は、朝貢使節の応接のため、明初に泉州(来遠駅)・寧波(安遠駅)と並んで設けられた。明末に一度廃れるが、清・順治101653年に平南王尚可喜の請願によって許可されたシャム(暹羅)とオランダの朝貢に伴い、明の同駅の旧地−「広州城外の西関(広州城外南西に位置するエリアのこと)の地」−に再建される。主にシャムの朝貢使節の宿泊施設であった。1870年代前半の懐遠駅の様子を示す史料によれば、館内にはタイ人五名の墓碑1666年に使節の一人として来華した長崎出身の日本人「伊左衛門」の墓碑を含む)があったという(※詳細は下記の村尾論文を参照されたい)。現在は墓碑を含め懐遠駅の遺構は全く確認できない。なお懐遠駅のそばには天后宮もあったという(乾隆『南海県志』)。

※シャム使節の朝貢や懐遠駅に関しては以下の文献がある。

増田えりか「ラーマ1世の対清外交」『東南アジア−歴史と文化−』241995年。村尾進「懐遠駅」『中国文化研究』161999年。

[最終調査日2007/12/27

北京路

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong7.JPG

珠江に面する南門から北へ延びる大通り。唐代から存在し広州市街の中心となる。2002にこの街路の下から宋・元・明・清の街路石畳と門楼が発掘され、それぞれ千年古道遺跡・千年古楼遺跡と呼ばれている。現在ガラス越しにこれらの遺跡の一部が見学できる(写真は明代のもの)。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/27

懐聖寺(イスラム寺院)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong8.JPG

光塔路56号。広州最古のイスラム寺院。唐代初期の創建。寺の名は「ムハンマド(聖人)を偲ぶ(懐念)」の意。光塔路一帯は唐代においてイスラム商人の居住区(蕃坊)であった。寺院の脇には光塔と呼ばれる煉瓦造りの塔がある。また寺院内には清代の石碑などがある。

※イスラム教徒以外の入場は原則的に許可されていないが、研究目的であることを説明すれば入場が許可されることもある。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/27

鎮海楼(五層楼)、広州博物館、宋代の城壁

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong9.JPG

解放北路。越秀公園内にある。1380の創建。花塔(六榕寺にある塔)・光塔(前項参照)と共に広州のランドマークであった。現在は広州博物館として利用されている(9:00-17:30)。館内には元代の水時計などが展示されている。鎮海楼の脇には宋代の城壁も残っている。広州の城壁としては最も古いものである。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/05

珠江

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong10.JPG

旧称は江(Guangdong River)。香港とマカオの間を通り南シナ海に注ぐ大河。流域は中国第二位の2200q(※一位は長江)。河口部の三角州の広がる珠江デルタ地帯は、香港・深圳・広州・珠海・マカオなどが並ぶ中国の輸出産業の一大集積地である。

 

[掲載写真撮影日2007/12/02最終調査日2007/12/27

〔参考文献〕

村尾進「珠江・広州・澳門−英文および絵画史料から見た「カントン・システム」−」小野和子編『明末清初の社会と文化』京都大学人文科学研究所、1996年。

村尾進「乾隆己卯−都市広州とマカオがつくる辺境−」『東洋史研究』65-42007年。

Van Dyke,P.A. The Canton Trade:Life and Enterprise on the China Coast,1700-1845. Hong Kong University Press, 2005.

『広州・マカオ・広東省−中国近代史の足跡をたどる』日経BP企画、2005

曾昭璇『広州歴史地理』広東人民出版社、1991年。

王爾敏『五口通商変局』広西師範大学、2006年。

 

郊外

南海神廟(東廟)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong_k1.JPG

黄浦区南崗廟頭村(開廟時間9:00-16:00)。廟頭村の南海神を祀った廟。隋の開皇年間581-600年)の創建という。南海神は祝融(または祝赤)という名の民間信仰の神で、華南の人々の始祖と見なされていた。やがて海上の風雲を司る神と考えられるようになり、航海安全の守護神となっていった。廟内には唐〜清代の多数の石碑がある。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/25

黄浦古港・黄浦村

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong_k2.JPG

粤海関の支部(粤海関黄埔分口)が置かれ、広州へ向かう西洋貿易船、および商船あるいはシャムなどの朝貢船の停泊地であった。各船はここで検査を受け、広州への入境許可を得た。船長や商人以外の乗組員は船上に滞留する決まりとなっていたが、英国船の乗組員は長洲島へ、フランス船の乗組員は深井島への上陸が許された。現在、粤海関黄埔分口および港口は復元・整備され、「広州海珠黄埔古港景観区」として一種の海浜公園となっている。

海珠区黄埔村(古村)には入境する外国人へ対応するための通事(通訳)や買弁が住んでいた。村の創建は宋代に遡り、黄姓の住民が最も多かったため「黄埔村」の名をなしたという。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/04

竹崗外国人公墓

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong_k3.JPG

長洲島深井村竹崗(俗に馬鞍山・番鬼山とも言う)の山中にあり、元来は英国船の乗組員のための墓地であった。現在の墓地は、一度散逸した墓石を近年収集して整備されたものである。アメリカ人の墓石が多い。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/04

威遠砲台

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/guangdong_k4.JPG

東莞の虎門鎮威遠島にあり、清・道光151835年に造られた虎門の主な砲台の1つ。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/05

〔参考文献〕同前

 

◆広州市内の書店情報

広州購書中心

広州市天河区天河路123号。電話020-38864208020-38862337。四階建て。いわゆる図書城。10:00-21:30(入店は21:20で)。地下鉄一号線の「体育西站」から徒歩で数分。道を挟んで向かいにデパートがあるなど便利な立地。

HPは以下: www.gzbookcenter.com

広州古籍出版

広州市北京路338号。電話020-83307783

 

●澳門

媽閣廟

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/aomen1.JPG

1488の創建。マカオでは最も古い媽祖廟で、マカオの名の由来となった。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/06

マカオ海事博物館

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/aomen2.JPG

媽閣廟とは広場を挟んで向かい側に建つ。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/06

セント・ポール天主堂(聖母教会)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/aomen3.JPG

1582年に聖アントニオ教会の附属礼拝堂として建設されるが、1601年に火災で焼失。1602年からイエズス会が再建を始め1640年頃に完成した。この再建事業には、キリシタン禁制によりマカオに逃れた日本人も参加したという。その後1835年に大火で崩壊した。今日残るのはファサード(正面部分)のみ。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/07

聖アントニオ教会(花王堂)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/aomen4.JPG

白鴿巣バスターミナルの南。1558年にマカオで初めて建設された礼拝堂の場所に建つ。マカオで最も古い歴史を持つ教会の一つであるが、現在の建物は二度の火災を経て再建されたもの。但し庭の十字架(写真)は1636年のものである。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/07

東方基金会(カーサ庭園)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/aomen5.JPG

モリソン教会の奥。アヘン戦争前夜までイギリス東インド会社が事務所(船荷監督委員会本部)を設けていた。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/07

モリソン教会の外国人墓地

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/aomen6.JPG

カトリックの牙城マカオにしては珍しいプロテスタント教会。1782年の創建。ロンドン伝導会に属したプロテスタント宣教師ロバート・モリソン1782-1834)の名を冠している。モリソンは最初の中英辞典の編纂や聖書の中国語版を刊行を行った人物である。墓地にはモリソンのほか、マカオに長く住み珠江デルタ地帯の各都市や人物を描いたイギリス人画家ジョージ・チネリー1774-1852などが眠っている。フリーメーソンのメンバーの墓石や、アルメニア人の墓石(写真)もある。

※チネリー、モリソンについては以下の文献がある。

ウイリアム・シャング「ジョージ・チネリーと同時代の画家たち」『しにか』四月号、2004年。東京都庭園美術館編『遙かなる東洋紀行−ジョージ・チネリーと知られざる広東・マカオ・香港の美術展』東京都歴史文化財団、1996年。都田恒太郎『ロバート・モリソンとその周辺−国語聖書翻訳史』教文館、1974年。松原真沙子「19世紀初期の中国におけるプロテスタント宣教師 : ロバート・モリソンの役割」『アジア太平洋討究』32001年。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/07

蓮峯廟

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/aomen7.JPG

荷蘭園大馬路(オランダ通り)の北の突き当たりに観音堂があるが、その左方に進んだ先にある。半島南部にポルトガル人が居住していたのに対して、このあたりは中国人の居住区であった。1592年の創建だが、現在の建物は19紀のもの。林則徐がマカオを巡察した際にポルトガル人代表と謁見しアヘン禁止を布告した場所でもある。このため廟の前庭に林則徐記念館がある(9:00-17:00、月曜休日)。なお蓮峯廟・観音堂・媽閣廟がマカオ三大寺院である。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/07

〔参考文献〕同前

 

[中国における琉球関係史跡の紹介・トップページへ]

琉球史研究リンク集へ]

*本サイトにおけるコンテンツを引用される場合は典拠(サイトアドレスなど)をご明記ください。営利目的の無断転載は禁止します。Copyright©, Watanabe Miki. All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system