[泉州]

●泉州とその近辺

市舶司(市舶提挙司)・来遠駅・海外交通史博物館・泉州天后宮・晋江・洛陽橋(万安橋)・崇武城[郊外]

 

・琉球との関連性を「(小)〜★★★(大)」で示します(※作者の独断によります)。

・琉球とは直接的に関係のない史跡もあります(※日本ほか広く海外交流に関する史跡についても説明しています)。

・自由に見学ができる史跡には「」のマークがついています。「」マークがないところも手続きを踏めば基本的に見学できます。

・見つけにくい史跡や個人旅行では行きづらいと思われる史跡には「」のマークがついています(※これも作者の独断によります)。

 

●泉州市内とその近辺

●.市舶司(市舶提挙司)跡 ★★★

しはくし(しはくていきょし)あと

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_Shihakushi.JPG

泉州に市舶司がおかれたのは、北宋1087年。市舶司は海外貿易の管理を行い、同時に海外からの使節の受け入れも行っていた。明代には一度廃止されたが、1403年に復設され、1405年に附属の駅(来遠駅)が設置された。泉州の港湾機能低下に伴い、明1470年ごろに福州に移設された。現在市舶司跡には「市舶司玄天上帝」の廟が建てられている。

※なお福州移転後の市舶司は、現在の林則徐記念館の近辺にあったと考えられる。

 

★行き方メモ

中山南路の北端近く(中山中路に切り替わる少し手前)に「水門巷」という道があります。この道を入るとさらに「竹街」という小道が交差しています。この道の中程に小川が交差しています。その川に沿って少し奥にはいると、右の写真の光景が見えます。また次項の南薫門跡は、水門巷から竹街にまがってすぐのところにあります。ちなみに中山南路を南下すると天后宮のあたりに着きます。

 

★市舶司周辺MAPこちら

 

〔参考文献〕藤田豊八「宋代の市舶司と市舶条例」『東西交渉史の研究』南海編、1932。小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』日本評論社、1939

掲載写真撮影日2006/11/04最終調査日2011/02/14

 

●.水門(南薫門)跡 

すいもん(なんくんもん)あと

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_water_gate.JPG

1352(元・至正十二)年、泉州城を拡大した際に、臨漳門と徳済門の間に南薫門(水門)を建てた。市舶司から最も近い門である。

 

掲載写真撮影日2006/11/04最終調査日2006/11/04

 

●.来遠駅跡 ★★★

らいえんえきあと

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_Laieneki.JPG

琉球使節は福建市舶司(@泉州)の管轄を受けて来遠駅に宿泊した。来遠駅は泉州市南部の聚宝街(じゅほうがい)という対外貿易商業区にあった。市舶司の福州移設により廃絶した。

なお来遠駅後の側には二枚の清代の車橋重修碑がある。

 

★行き方メモ

天后宮(次項)の前の道を渡り、南門跡を背に聚宝街を南下すると小さな川があります。そのほとりです。

 

掲載写真撮影日2006/11/04最終調査日2011/02/14

 

●.南門(徳済門)跡 

なんもん(とくさいもん)あと

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_south_gate.JPG

1352(元・至正十二)年、泉州城を拡大した際に、南門をそれまでの鎮南門から徳済門に変更した。天后宮の前にある。

 

掲載写真撮影日2006/11/04最終調査日2011/02/14

 

●.泉州天后宮 

せんしゅうてんこうきゅう

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_masobyo.JPG

南門(徳済門)のすぐ内側にある。1196(南宋・慶元二)年創建。明代には福建から海外に向かう官船が媽祖に航海の無事を祈る施設となっていた。

 

掲載写真撮影日2006/11/04最終調査日2011/02/14

 

●.晋江 ★★

しんこう

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_sin_river.JPG

琉球の進貢船は海上から晋江を遡上して泉州に入り、来遠駅の付近に着船したと想定されている[写真は来遠駅に近い地点の晋江の川べり]。

〔参考文献〕入間田宣夫・豊見山和行『北の平泉、南の琉球』中央公論新社、2002

 

掲載写真撮影日2006/11/04最終調査日2011/02/14

 

●.海外交通史博物館 ★★

かいがいこうつうしはくぶつかん

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_museum.JPG

1959年に開館。泉州市付近で発見された石刻、交易品などの出土品を展示している。琉球人墓碑(道光11年死亡の進貢二号船佐事・慶良間渡嘉敷間切の小嶺筑登之親雲上)[写真左]が一枚展示されている他、諸外国との交流を示す碑刻展示が圧巻である。

 

◆墓碑

「琉球国/道光十一年辛卯五月九日死/進貢小唐船佐事慶良/間渡嘉敷間切同村小/嶺筑登之親雲上墓地/長一丈六尺横闊一丈一尺」

[最終調査日2011/02/14

 

●.洛陽橋(万安橋) ・やや

らくようきょう(ばんあんきょう)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_luoyang_bridge.JPG

北宋期の書家・泉州知府の蔡襄(1012-1067)が建設を指揮したという伝説が残る。琉球久米村の蔡姓氏の大宗・蔡崇は1392年に泉州府南安県から久米村に移住したが、蔡襄の六代目と伝えられている。洛陽橋の工法は「筏型基礎」と呼ばれ、川底に大量の石を沈め、橋の上部と同じように一筋の繋がった基礎を造ってしまう、つまり川底にも橋があるようなもの。そして、その基礎石や橋脚を接着する方法として、生きた牡蠣が使われている「牡蠣固基法」という生物学を応用した橋梁工法が採用されている。

なお蔡襄の墓は、仙游県楓亭鎮埔頭村にある。

〔参考文献〕大城康洋「蔡譲−亀とフカに助けられた人−」『久米村−歴史と人物−』ひるぎ社、1993

 

[掲載写真撮影日2002.10.03/最終調査日2011/02/14

 

●.崇武城 ★★▲[郊外]

すうぶじょう

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Quanzhou_chongwu_castle.JPG

恵安県の東南にある崇武鎮にある(※泉州から車で一時間程度)。倭寇防衛のために建設された。北宋1079年に「小兜巡司」が設置され、明・洪武年間に「崇武守禦千戸所」が設置された(地名は小兜から崇武に改められた)。以後、何度も修築・重築された。長さ500m、幅300m、高さ5m。花崗岩で作られている。城門のうち最も完全に残っているのは西門である。

嘉靖『崇武所城志』(朱?纂)「戦船」の記事によれば、崇武所(崇武守禦千戸所)には倭寇の襲撃に備え十カ所に百戸所が設置され、各戸に船隻(官船10・快船2)が配備されていたが、その内の「百戸・経某の管轄する勇字59号(400料官船)は後に琉球国王が派遣した長史・郭祖尾[郭祖毎]に送らせて琉球国へ去(ゆ)かせ〔進貢船に転用させ〕た」という。なお郭祖毎は1431年の朝貢使であり(『明実録』)、勇字の船字号を持つ進貢船が『歴代宝案』に登場するのは1434年であるので、崇武所からの船隻の支給は1431-1433年の間に行われたと考えられる。

〔参考文献〕王連茂「泉州と琉球−双方の関係史に関する若干の問題についての調査考証」『琉球−中国交流史をさぐる』浦添市教育委員会、1988。入間田宣夫・豊見山和行『北の平泉、南の琉球』中央公論新社、2002

[掲載写真撮影日2001.10.23/最終調査日2011/02/14

●崇武城MAP

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Chongwu_map.JPG

※周辺の公園地区に入るためにはチケットが必要です。城内の村へはチケット無しで入ることができます。南門からはチケットを買わないと進入できないので、チケットを買わない場合は西門から入るとよいでしょう。

 

[中国における琉球関係史跡の紹介・トップページへ]

琉球史研究リンク集へ]

*本サイトにおけるコンテンツを引用される場合は典拠(サイトアドレスなど)をご明記ください。営利目的の無断転載は禁止します。Copyright©, Watanabe Miki. All Rights Reserved.

 

inserted by FC2 system