浙江省の琉球関係史跡

杭州:西湖・岳王廟・霊隠寺

嘉興:煙雨楼

寧波:三江口・天一閣・鎮海

琉球と浙江省との関わり

【朝貢使節の通過地点】

福州を出た琉球使節は閩江を北上し、延平(現・南平)を過ぎるあたりで支流の建渓に入り、浦城へ向かう。浦城からは陸路で、武夷山脈を越える。その中でも標高1435mの仙霞嶺は最大の難所であった。この嶺を越えると浙江省で、衢県→建徳→富陽を経て、杭州に入った。杭州から嘉興府を通って、隣の江蘇省に入った。浙江省には名勝旧跡が多く、琉球使節は旅路沿いの古跡や杭州の名勝地にしばしば足を運び、漢詩を詠むなどしている。

【琉球船漂着のメッカ】

南北に長い海岸線を持つ浙江省は、中国の中では琉球船が最も多く漂着した省である。清代の順治年間から道光年間(1644-1850年)にかけて、浙江省に漂着した琉球船は111隻(進貢船を除く)で、二位の福建省の38隻を大きく引き離す。その内訳は以下の通りである(※5件以上の漂着が確認できる地名のみ右に内訳を挙げる)。

寧波府59

定海県32・象山県20・鎮海県6

台州府25

臨海県14・太平県8

温州府22

玉環庁7

但し逆に近世を通じて中国から琉球に漂着した船は、福建省の船が最も多く、浙江省からは寧波船(内1隻は巡哨中の兵船)と杭州船など5隻に満たない。なお久米村の揚氏(古堅家)の大宗・明州は浙江台州府人で、張五官という人物と共に寧波へ赴く途中、1629年に石垣島へ漂着し、1648(順治5・慶安1年に久米村に入籍した(『揚氏家譜』)。

【古琉球期の浙江と琉球】

 久米村の金氏(具志堅家)の大宗・瑛(1369=洪武2年〜1438=正統3)は、浙江の人で、元代に福建省に移住し、1392(洪武25年に久米村に入籍したという(『金氏家譜』)。但し浙江のどの地方の出身であるのかは不明である。 また1432年の『明実録』の記事からは、琉球の進貢船は、本来泉州にのみ入港すべきであるにも関わらず、恒常的に寧波・瑞安(共に浙江省)に入港していたことが知られる。使節は寧波では、市舶司附属の安遠駅に逗留したが、瑞安には館駅が無かったため「東安館駅」が新たに設けられた(この駅は嘉靖年間には廃墟となっていたという)。詳細は本ページ末尾の参考文献にあげた岡本論考(14-15頁)に詳しい。

 

・自由に見学ができる史跡には「」のマークがついています。「」マークがないところも手続きを踏めば基本的に見学できます。

・見つけにくい史跡や個人旅行では行きづらいと思われる史跡には「」のマークがついています(※これも作者の独断によります)。

・参考文献は本ページの下部にあります。

杭州

浙江省の省都。旧城は銭塘江の北岸にあった。西部に位置する西湖は、往年の名勝地として名高い。隋代に建設された大運河の南端で、古くから商業的な発展を遂げた。

西湖                                                                                   

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【西湖〜琉球人の漢詩の一大テーマ〜】

北京への朝貢の行き帰りに杭州を通過した琉球人は、しばしばこの西湖をテーマに漢詩を詠んだ。例えば、久米村の蔡鐸(1644-1724)は「遊西湖」(西湖に遊ぶ)・「西湖観梅」(西湖に梅を観る)(「観光堂遊草」所収)を詠んでいる。また程順則(1663-1734)は、「拝林和靖先生墓」(林和靖先生の墓に拝す)・「過蘇小墓」(蘇小の墓を過ぐ)・「飛来峯」など西湖周辺の名勝を漢詩に詠んだ(「雪堂燕遊草」所収)。

※林和靖(林通、9671028):銭塘(杭州)人。西湖の中の孤山という洲に隠遁した。

※蘇小(蘇小小):銭塘の名妓。二名いて一人は六朝、一人は南宋時代の人。西湖のほとりに住んだ。

※飛来峯:西湖の西岸にある山の名前。霊鷲峰とも言う。

【琉球使節の西湖遊覧〜総督・李衛のもてなし〜】

1730(雍正88月、北京へ上る琉球の朝貢使節が杭州に到り、浙江総督の李老爺(李衛)に拝謝した。先月、宮古島の作和田与人ら19名が浙江省の温州府に漂着した際に、李老爺が銀・衣服を支給して船体を修理し、翌年帰国する進貢船に同船できるよう、官人を派遣して福州まで護送してくれたので、その礼を述べると、李老爺は琉球人が礼数を知っていることを喜び、県官に命じて酒席・吹鼓を設け、琉球使に西湖の遊覧をさせてくれた。(『蔡氏家譜』具志家・仲井真家)

※この時、具志家の12其棟が朝京通事、仲井真家の1文河が正議大夫(進貢副使)だった。

[掲載写真撮影日・最終調査日2008/03/26

蘇堤(西湖)                                                                             

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西湖にある、蘇東坡が築いたと伝承される堤。程順則は「蘇堤観柳」(蘇堤に柳を観る)という漢詩を詠んでいる(「雪堂燕遊草」所収)。なお西湖には、白居易が地方官としてこの地に赴任した際に築いたと伝えられる白堤もあり、蘇堤と並んで有名である。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2008/03/26

湖心亭(西湖)                                                                           

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西湖に浮かぶ小島にある亭(1552年に創建)。程順則は「湖心亭」という漢詩を詠んでいる(「雪堂燕遊草」所収)。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2008/03/26

岳王廟                                                                                 

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宋の遺臣岳飛の墓と廟。岳飛は宰相・秦檜らに謀殺され、しばらくは罪人として扱われたが、その後えん罪が証明され、生前の爵位に戻され、さらに1204年には岳王に追封された。廟は明代の創建で、現在の建物は1979年の重建。墓の前に秦檜夫婦が縄で繋がれた形で正座させられ許しを乞う像が設置されている。以前は参拝客がつばを吐きかけるのが「恒例」であったが、現在は禁止されている。但し像を叩く・こづくなどする参拝客は後を絶たない。

【清代は足蹴にされていた秦檜像】

蔡鐸の漢詩「遊西湖」に「岳王の墳」として登場するほか(「観光堂遊草」所収)、1762年に土佐に漂着した琉球人(潮平盛成ら)は、土佐藩儒の戸部良煕に「杭州に内晋の岳王の廟あり。此王を讒せし者(=秦檜)夫婦を鉄像にして、岳廟の前に半分埋み置き、往来の者足にて踏行也。岳廟え参る者まづ此像を踏み、或はたゝきなどせねば、参つたに立ぬと云風俗也」と語ったという(『大島筆記』)。どうやらこの頃は秦檜夫婦像を足で踏むのが恒例であったらしい。

【紀州の福生寺の銅鐘】←日本関係

 岳王廟には明和七(1767)年の鋳造銘が入った紀州福生寺の銅鐘が保管されている。同治・光緒年間に、銭塘人の胡光墉(18231885年、号は雪岩)が日本に留学した際に購入し、岳王廟に寄進したという。彼は日本で数十個の銅鐘を購入し、その内14個を持ち帰って、省城城隍廟・文昌廟・解神殿・神宵雷廟・東岳廟・呉山■廟・龍興廟・岳王廟・五雲山・雲栖寺・北高峰霊順廟・上天竺法喜寺・南星橋譙楼・天目山昭明寺の14箇所に寄進したという。当時日本は廃仏毀釈で、寺院の銅鐘は入手しやすかったとか。(《杭州歴史叢編》編集委員会編『元明清名城杭州』杭州歴史叢編5、浙江人民出版社、1990

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2008/03/26

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霊隠寺                                                                                 

(準備中)

西湖の西岸にある禅寺。雲林禅寺とも言う。久米村の曽益(1645-1705)は「遊霊隠寺」(霊隠寺に遊ぶ)という漢詩を詠んでいる(「執圭堂詩草」所収)。

[最終調査日2000/11/19

 

嘉興

烟雨楼(煙雨楼)                                                                         

(準備中)

嘉興の南湖にある楼。五代の後晋年間(936-947年)の創建。現在の楼は、1918年に重建されたもの。なお承徳の避暑山荘には1780(乾隆15)年に浙江省の烟雨楼を忠実に模して建てられたもう一つの「烟雨楼」がある。

【総督・李衛が修復した楼を見学】

総督李衛のもてなしを受けた1730年の朝貢使節は(※西湖の項を参照)、その後、嘉興府に護送され、烟雨楼を見たという。『蔡氏家譜』(具志家・仲井真家)には、「この楼は五代時代に建てられ、古くなって崩壊したが、李老爺(李衛)が資金を出して修理したので、盛大美麗なこと甚だしい」と記されている。

 

寧波

浙江省第二の都市。旧城は、甬江河口から少し遡行した場所に位置する。古くは明州と呼ばれ、明代より寧波となる。日本との関わりが深い地で、遣唐使や入唐僧の多くが、この地から上陸した。また宋代から明代にかけては日本に開かれた唯一の港であった。古琉球期(中世)には琉球の進貢船もしばしば入港した。

三江口                                                                                 

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甬江・余姚江・奉化江の合流地点。かつて最澄や道元らが降り立った寧波の古港があった。現在は市の中心部にあり、公園として再開発中である。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2008/03/28

 

その他の海外交流史跡

天一閣(寧波市内)                                                                       

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明代の官僚範欽の蔵書楼で1561年ごろに建設された。中国最古の私設蔵書施設である。範欽は嘉靖年間に寧波の鄞県に生まれ、1532年に進士となって後、各地で官僚生活を送った。55歳の時、兵部侍郎を辞任して帰郷し、天一閣を作った。当時の蔵書は7万巻余りであったというが、現在の蔵書は1.7万冊である。

博多津・太宰府居住の在日宋人の寄進碑

後に1930年頃に市内で発掘された「博多津・太宰府居住の在日宋人の寄進碑」3点を含む「千晋斎」遺物が寄贈され、天一閣内の「尊経閣」の裏庭に「千晋斎」遺物展示室が設けられたが、20083月に管理人が訪問した際にはこの石碑は展示されていなかった。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2008/03/29

鎮海口海防遺跡(鎮海区)                                                                 

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市内から車で一時間程度の鎮海区にある。鎮海(※清代の1687年までは定海県であったが、舟山に定海県が設置されることになり鎮海県と改名された)は寧波市内にて合流した奉化江・余姚江が甬江となって海に注ぐ河口地点で、古来より海防の要所であった。海防遺跡の敷地の中には、鎮海口海防歴史記念館(明代以降の抗倭・抗英・抗仏・抗日に関する海防資料を展示)、威遠城(1560年に建てられた倭寇防衛の砦)、宝陀禅寺などがある。また敷地の外側に安遠炮台や中仏戦争(18841885)の記念碑などもある。なお鎮海港は一般客の立ち入りは禁止されている。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2008/03/28

後海塘(鎮海区)                                                                         

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鎮海区の北側(巾子山と兪範の間)にある長さ約4キロ(高さ約10メートル)の堤防で、唐代897年に建設が開始されたという。以後、何度か決壊して修復された。また明代には倭寇防衛のため増強されたこともあった。堤上には明代の「定海県建城碑」などがある。

 

[掲載写真撮影日・最終調査日2008/03/28

 

〔参考文献〕

岡本弘道「明朝における朝貢国琉球の位置付けとその変化−1415世紀を中心に−」『東洋史研究』57-41999年。

島尻勝太郎選(上里賢一注釈)『琉球漢詩選』ひるぎ社、1990年。

真栄平房昭「琉球の唐旅と中国体験」『歴史の道・再発見』第八巻(北方交易から王道楽土まで−海上の道−)フォーラム・A、1999年。

渡辺美季 「清代中国における漂着民の処置と琉球(2)」『南島史学』、552000年。

渡辺美季「漂流・漂着と近世琉球」財団法人沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編『沖縄県史・各論編』4[近世]、沖縄県教育委員会、2005

 

 

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