日本における琉球関係史跡の紹介

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   日本各地(奄美諸島以外)における琉球関係の史跡の場所・概要・参考文献などを紹介します。

   調査・研究を進めながら、随時、書き足しています。

九州 

●鹿児島1[鹿児島市およびその近辺] →入り口

●鹿児島2[西南部(薩摩半島)] 山川・指宿・開聞・知覧・坊津・加世田など →入り口

●鹿児島3[中部] 国分・隼人・霧島・加治木など →入り口

●鹿児島4[東南部] 志布志・高山・内之浦・根占・垂水など →入り口

●鹿児島5[北部1] 宮之城・薩摩・入来・川内・串木野・市来など →入り口

●鹿児島6[北部2] 阿久根・出水・長島・甑島など →入り口

※関連論考→〈研究エッセイ〉渡辺美季「鹿児島県に残る「琉球」−僧侶の墓を中心に−」(『非文字資料研究26号、20117

 

●九州(鹿児島以外)

補足

太宰府天満宮旧蔵

(沖縄県立博物館蔵)

◆扁額「徳高/中山鄭元偉謹書/嘉永五年壬子二月/薩州府下及諸邑市塵同社/謹献之」

1852年に天満宮へ奉納されたものと見られる。

〔参考文献〕沖縄県教育庁文化課編『扁額・聯等遺品調査報告書(沖縄県文化財調査報告書44)』沖縄県教育委員会、1983年。

四国

●四国

香川

善通寺

善通寺町3-3-1

準備中

◇扁額(記録のみ?):(多度津善通寺)「履険獲安蒙聖庇渡閩返国報神恩/琉人叩書」(高木善助『薩陽往返記事』1、P.612

高知

清水蓮光寺

土佐清水市元町11-1(消防署の近く)

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Kohchi_Renkohji1.JPG

◆漂着・病死した琉球人墓:墓碑「覚室宗本信士」

・現在判読できるのは上記の六文字のみである。墓碑中央に刻字されている。なお『幡南探古録』によれば墓碑には「覚空(室の誤読)宗本信士、宝永二年乙酉九月十六日 琉球国小ッ(文字摩滅)」と刻まれていたという。

・埋葬者は1704年の進貢船の乗員・小峯と見られる。

・この進貢船は、1705、帰国の途中で暴風に遭い、土佐国清水地方に漂着した。庄屋の「五右衛門」・郷士の「濱田五郎兵衛正純」らが救助・世話をした(「濱田五郎兵衛正純」は庄屋兼郷士であったが、元禄8に実弟・五右衛門に庄屋を継がせた人物である)。この琉球人墓が、清水浦の歴代庄屋であった濱田家の墓地内にあるのはそのためであろう。

 

*清水湊は、古くからの良港で、暴風を避けるのに適した船だまりがある(唐船島の付近)。琉球船の他、1602(慶長七)年には、メキシコに向かう呂宋船が漂着、1616(元和二)年にも暴風のため呂宋船が漂着している。近代に入ると捕鯨の基地にもなった。

*蓮光寺(浄土宗)は清水湊(清水港)を見下ろす丘の上にあり、「海にのぞみて往来の商客を、利益の風をわけて南北の舟人を送迎す」という(『南路志』)。写真は蓮光寺の境内で、門の向こうに見えているのが海である。本尊の木造阿弥陀如来は鎌倉時代後期の作と考えられており、寺の創立もそのころであろうと推測される。1534年には当地の有力土豪である加久見氏から鐘が奉納されている。明治の廃仏毀釈で一度廃寺となったが、後に復活した。

〔参考文献〕島村幸一「土佐漂着の『琉球人』―志多伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心に―」『沖縄文化研究』342008年。土佐清水市教育委員会編『土佐清水市史』上、土佐清水市、1980亀井丈夫(補註沖本樵児)『補註・幡南探古録』土佐清水市史刊行会、1966

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Kohchi_Renkohji2.JPG

南宗寺

四万十市(旧・中村市)下田

準備中

◆漂着・病死した琉球人墓(南宗寺の後ろの山に埋葬されている)

・埋葬者は1795年に下田に漂着した琉球船の座波35

・南宗寺は、『土佐州郡志』によれば「禅宗太平寺末、号梅福山、本尊釈迦観音相伝行基恵心之作」。現在は臨済宗妙心寺派の寺院である。

〔参考文献〕島村幸一「土佐漂着の『琉球人』―志多伯親雲上・潮平親雲上・伊良皆親雲上を中心に―」『沖縄文化研究』342008年。中村市史編纂室編『中村市史』中村市、1969年。

中国

●中国

広島

満舟寺

御手洗(呉市大崎下島)の町並み保存地区内

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Hiroshima_Manshuji.JPG

◆書「嘉慶十二年丁卯季春/満舟寺/[球陽]中山楽師梁光地」

1806(文化3)年の謝恩使の楽師・梁光地が、翌年二月、江戸からの帰途に御手洗を通った際に作成した。

◆扁額「嘉慶十二年丁卯季春/満舟寺/球陽中山楽師梁光地」(裏面、略)[写真]

・上記の書を扁額に仕立てたもの。俳人の栗田専助の寄進し、専助の没後、1815(文化12)年に第七代権大僧都が本堂に掲げた。

高木善助『薩陽往返記事』1(P.613)にも記録がある

 

*御手洗は、江戸時代に潮待ち・風待ちの港として栄えた。

〔参考文献〕木村吉聡編『琉球使節の江戸上りと御手洗』御手洗潮待ち館観光交流センター、2001

小松寺

鞆の浦(福山市鞆町)

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Hiroshima_Komatsuji.JPG

◆墓:墓碑(表)「琉球/向氏与世山親雲上/法号/幽岸曹源禅定門之墓」、(裏)「与世山親雲上姓向名道亨/是琉球中山王使者宜野湾王子赴江戸之時為楽師随行/至備轄下鞆港而病故/時寛政二年庚戌十月十三日/翌日葬于小松寺宅/琉球国同僚泣血拝志」

1790(寛政2)年の江戸上りの楽師・与世山親雲上朝易(向道亨)の墓。江戸に向かう途中の1013日に病死。(太田南畝『一話一言』巻9ほか)。

◆扁額「寛政丙辰譜久山親方朝紀為/容顔如見/亡孫幽岸曾源寄立」

・向道亨の祖父が後日寄進した。

 

*鞆の浦は沼隈半島の先端にある港町。瀬戸内海交通の要所として古くから栄えた。

〔参考文献〕『特別展・港町鞆の寺院−その二・臨済宗寺院−』福山鞆の浦歴史民俗資料館活動推進協議会、2001年。

近畿

●近畿

兵庫

真光寺

兵庫の浦

準備中

◇墓(現在は沖縄に移転)・墓碑銘「琉球白氏宮城親雲上(仙岳遊方居士)」

・現在は子孫により沖縄の屋慶名に移転されている。

大阪

薩摩藩蔵屋敷(上屋敷)跡

西区土佐堀2-4-9JR福島駅から徒歩約10)。三井倉庫大阪支店土佐堀事務所。土佐堀と江戸堀の間。

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Osaka_Satsumakura.JPG

◇旧跡碑

・土佐堀二丁目に蔵屋敷(上屋敷)があり、掛屋敷として江戸堀に中屋敷、立売堀西の町に下屋敷があった。中屋敷の跡地も現・三井倉庫大阪支店と重なるあたりである。

京都

大黒寺(薩摩寺)

京都市伏見区鷹匠町4(京阪線・近鉄線丹波橋駅から徒歩)

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Kyoto_Daikokuji.JPG

真言宗。旧名は長福寺。17世紀初に大黒時と改称。薩摩寺の通称を持つ。

◇墓(記録のみ):1832(天保3)年の儀衛正・儀間親雲上(蔡修、1777-1832)が江戸へ向かう途中に病死し埋葬された(享年56才)。また讃議官・嵩原親雲上も病死し、ここに埋葬された。

 

江戸初期に近くに薩摩藩邸が置かれ、藩主の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天がこの寺に祀られていたことから、1615(元和元)年に薩摩藩の祈祷所に定められ、大黒天を本尊として大黒寺と改称した。境内には寺田屋事件で犠牲となった九烈士の墓などもある。

滋賀

正定寺

草津市

準備中

◆死亡記録:1850の江戸上りの帰途に死亡した渡久地親雲上が埋葬された。

補足

大阪天満宮旧蔵

(沖縄県立博物館蔵)

◆扁額「大日本國浪華天満菅廟奉呈/徳馨/天保十四年癸卯王政/琉球國摂政尚元魯謹書」

1843年に尚元魯(浦添王子朝憙)が大阪天満宮へ奉納したものと見られる。

〔参考文献〕沖縄県教育庁文化課編『扁額・聯等遺品調査報告書(沖縄県文化財調査報告書44)』沖縄県教育委員会、1983年。

中部

●中部

岐阜

津島神社(天王社)

大垣市墨俣町墨俣92-3(大垣信用金庫墨俣支店の脇)

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Sunomata1.JPG

◆常夜灯:竿の部銘[一面]「牛頭天王」[二面]「常夜燈」[三面]「乾隆五十六年辛亥正月吉旦/琉球國儀衞正毛廷柱書」[四面]銘なし。基礎の部銘[一面]銘なし[二面]「天王講中/大江久右衞門/臼井宗右衞門/田中彌吉/加野七兵衞/加野武左衞門/加野太平治/臼井治兵衞/安藤與左衞門」[三面]「墨俣惣中/澤井傳左衞門/武藤金十郎/長谷川四郎兵衞/加野孫衞門/臼井源左衞門」[四面]銘なし。

1790年の将軍家斉の慶賀使の儀衛正・毛廷柱(兼本親雲上)が、翌年、帰途に揮毫した常夜灯。毛廷柱(1745-1801)は久米毛氏の本家・與世山家の六世。元は「宣猷」と称したが、「宣」の字が国禁となったため「廷柱」と改名した。

 

*墨俣は美濃路(中山道と東海道を結ぶ脇街道)に設けられた六つの宿駅の内の一つである。津島神社は、美濃路の道路脇に位置し、元来は「牛頭(ごず)天王社」と言った。明治初年に「津島神社」と改称された。

〔参考文献〕墨俣町史編纂委員会編『墨俣町史』岐阜県安八郡墨俣町役場、1956年。すのまたのあゆみ編集委員会編『すのまたのあゆみ』墨俣町教育委員会、1982年。

〔参考URL墨俣町商工会HP(地図が載っています)

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Sunomata2.JPG

愛知

海国寺

名古屋市熱田区市場町

◇墓(記録のみ):墓碑銘「真岩玄性居士」

1748(寛延1)年の慶賀使讃・渡嘉敷親雲上(麻真冨、1710-49)が埋葬された。江戸上り(慶賀使)の帰途(1月12日)に熱病で逝去。

*海国寺は天文八1539年に建立された臨済宗妙心寺派の寺院で、玉竜山と号す。

〔史料〕『張州雑志』(二十五)、「麻姓家譜」(『那覇市史』資料篇1-7P.591-592)。

〔参考文献〕『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993年。古塚達郎「琉球人の墓を訪ねて−江戸上りのルートをたどる−」『地域と文化』751993年。

瑞泉寺

名古屋市鳴海

◆墓:墓碑銘(表)「琉球国来応院即心是空居士」(左)「中山富山親雲上梁文弼、久米村儒家、以楽師于役、江戸未至、没於尾張国鳴海駅回葬焉、時年三十八」(右)「天保三年壬辰十一月四日」

1832(天保3)年の楽師・富山親雲上(梁文弼、1794-1832)の墓がある(享年38才)。同年11月4日、尾張の稲葉宿で病死。

◆書:「海清/中山梁文弼」・「龍飛/中山梁文弼」(一対)、「小梅香裏黄鶯囀玉樹隠中紫鳳来/中山梁文弼」・「白雲深処無塵中好鳥聞時尽妙音/中山梁文弼」(一対)

・梁文弼の書が残されている。

※他に薩摩で琉球側に雇われた人足「小根占鶴丸屋敷之幸介」の墓があった(記録のみ)。

*瑞泉寺は曹洞宗の寺院で竜蟠山と号す。

〔参考文献〕『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993年。古塚達郎「琉球人の墓を訪ねて−江戸上りのルートをたどる−」『地域と文化』751993年。

禅源寺

稲沢市稲沢町稲葉1-6-4(最寄り駅:国府宮駅)

◆書「菊花山上駐吟/鞍霜菊水仙塵/外看風雅高僧/能愛客筆頭珠/珠色無乾/次和高韻奉謝/金華山禅源寺法厳和尚/兼祈慈政/琉球向和聲拜稿」

1718年の慶賀副使・西平親方朝叙が当時の僧侶清光に贈った詩

◆江戸上り同行の薩摩藩士の墓:墓碑銘(表)「天山全性居士」(左)「山内角兵衛」(右)「天保三年辰年十一月四日」

・江戸上りに同行した薩摩藩士・山内角兵衛の墓。183211月3日死亡。

*禅源寺1376年に建立された臨済宗妙心寺派の寺院。金華山と号す。

〔参考文献〕古塚達郎「琉球人の墓を訪ねて−江戸上りのルートをたどる−」『地域と文化』751993年。

静岡

西見寺

浜松市

準備中

◇墓(記録のみ):(表)「琉球/燕姓中西筑登之」、(裏)「燕姓中西筑登之者/琉球国中山王使美里王子家臣也/従美里王子/往江都時宝永七年庚寅十一月二日/因病死遠州浜松駅/行年四十/埋葬於西見寺也/同国官人泣血誌」

1710(宝永7)年の慶賀使従者・燕姓中西筑登之が埋葬された(同年11月2日逝去)。墓碑には上のように刻字されたという。〔史料〕天野信景『塩尻』拾遺(巻47、杉浦国頭『曳駒拾遺』、『通航一覧』ほか

◆墓「琉球國儀衛正/魏氏高嶺里之子親雲上國香之墓/嘉永三年庚十月二十二日卒」(左側に事績、裏面には道光年号)

1850年の江戸上りの際に死亡した高嶺親雲上(魏国香)の墓。墓地の入り口の左側にある。

〔参考文献〕『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993年。古塚達郎「琉球人の墓を訪ねて−江戸上りのルートをたどる−」『地域と文化』751993

清見寺

静岡市(旧・清水市)清水区興津清見寺町418-1JR興津駅から徒歩15分)

説明: https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Shizuoka_Seikennji.JPG

◇墓(旧):〔梵字四字〕

1610(元禄3)年、島津家久と共に江戸に参府した尚寧王に同行した王弟・尚宏(具志頭王子)の墓。

◇墓(新):墓碑銘「求玉院殿/大洋尚公大居士」。側面1「慶長十五年庚戌八月廿四日」。側面2「今年奉使到江戸、既而帰国之時、前到駿河、恭祭祖墓、因見石塔文字已毀、即命工改刻焉、時是寛政二年庚戌十二月九日也、裔孫容謹記」

10世宜野湾王子朝祥が1790年に新たに建立した。[写真]

◇扁額「寛政二年庚戌嘉平穀旦/永世孝享/裔孫朝陽謹立」

1790年に子孫の10世宜野湾王子尚容(朝祥)が献じた。本堂内にある。周囲には朝鮮通信使の扁額も多数掛かっている。

◇対聯:(右)「寛政庚戌嘉平穀旦/皎月長輝清見寺」(左)「芳風不断駿河山/裔孫朝陽謹題」

1790年に子孫の10世宜野湾王子朝祥が献じた。

◇青銅の灯篭:扁額の前に一対の青銅の灯篭があり琉球使の奉じたものとされている。

◇弔祭文:1710-1752年の六つの弔祭文が綴られた軸と1764-1850年の八つの弔祭文が綴られた軸。

◇三線:古い三線が本堂内の座敷に展示されている。

◇漆器・陶器:子孫が献じた琉球漆器(天目碗の蓋・天目題・盤など)、陶製の天目茶碗がある。(宝物殿)

※清見寺史料によれば琉球使は17101714174917641791180618301850年に参詣している。

〔参考文献〕『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993年。古塚達郎「琉球人の墓を訪ねて−江戸上りのルートをたどる−」『地域と文化』751993年。

関東

●関東

東京

江戸城

 

準備中

上野東照宮

 

準備中

日光東照宮の代参で参詣。

薩摩屋敷(白金邸)

 

準備中

芝大円寺

 

準備中

島津の江戸菩提所。

◇墓(記録のみ?):1806(文化3)年、正使従者・比嘉親雲上が薩摩屋敷で死去(123日)。戒名「環中院霊峰養仙医本」。27回忌に当たる1832(天保3)年には讃議官・小禄親雲上良恭らが墓参りを行っている。(『琉球貢雪新話』)

東北・北海道

●東北・北海道

 

[参考文献](※個々の史跡の参考文献はそれぞれの項目に併記してあります。)

沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編『沖縄県史ビジュアル版8・近世2 琉球使節の江戸参府』沖縄県教育委員会、2001

沖縄県教育庁文化課編『扁額・聯等遺品調査報告書(沖縄県文化財調査報告書44)』沖縄県教育委員会、1983

宮城栄昌『琉球使者の江戸上り』第一書房、1982

横山學『琉球国使節渡来の研究』吉川弘文館、1987

真栄平房昭「江戸上りの旅と墓碑銘」『沖縄文化研究』211995

古塚達郎「琉球人の墓を訪ねて江戸上りルートをたどる」『地域と文化』751993

『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993

郡山政雄「琉球関係の扁額」『鹿児島民俗』106号、1995

『日本歴史地名大系』平凡社website

 

*本サイトは2007年度文部科学研究費補助金(特別研究員奨励費)、2009-10年度文部科学研究費補助金(若手研究スタートアップ)による研究成果の一部です。

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