[福州郊外]
●定海・平潭エリア |
定海琉球人墓・定海鎮・連江県博物館・普光塔(雲居塔)/琉球国駙馬墓跡・平潭県文化館(琉球人墓碑)・平潭旧街 |
●その他の郊外の海外交流史跡 |
黄檗山万福寺・雪峰寺など |
・琉球との関連性を「★(小)〜★★★(大)」で示します(※作者の独断によります)。
・琉球とは直接的に関係のない史跡もあります(※日本ほか広く海外交流に関する史跡についても説明しています)。
・自由に見学ができる史跡には「可」のマークがついています。「可」マークがないところも手続きを踏めば基本的に見学できます。
・見つけにくい史跡や個人旅行では行きづらいと思われる史跡には「▲」のマークがついています(※これも作者の独断によります)。
●定海エリア
●.定海・琉球人墓 ★★★・可・▲ |
|
ていかい・りゅうきゅうじんぼ |
|
|
連江県定海鎮815路211番附近。定海鎮に入るすぐ手前の道路脇。港に面している。那覇の士族・粟国筑登之親雲上(あぐにチクドゥンペーチン)の墓(1783年没)。かなり見つけにくいため、場所を知っている人にガイドを頼むのがよい。 ※現在、墓碑は新設された亀甲墓の正面に埋め込まれている。 ◆墓碑 「琉球国/乾隆四十八癸卯/泉崎村五主粟国筑登之親雲上墓/四月十五日卒」(1783年) [掲載写真撮影日・最終調査日2003/05/10] |
●.定海鎮 ★・可・▲ |
|
ていかいちん |
|
|
閩江の河口から約30キロ。福建海防の要地。元代に巡検司があった。明代洪武年間に城市型要塞が築かれた。海に臨んで三重の城門があり「会城重鎮」の四字が刻まれる。万暦年間に兪大猷・沈有容らはここで倭を撃破した。清代には定海営が置かれた。定海は海上交通の要衝だったので、11カ所の沈船遺跡が発見されており、大量の陶磁器が出土している(宋・元〜)。鎮内には媽祖廟もあるが、残念ながら昔の建物は国民党の爆撃によって破壊され現在の建物は新しい。 [掲載写真撮影日・最終調査日2006/11/02] |
●.連江県博物館 可・▲ |
|
れんこうけんはくぶつかん |
|
|
福州から定海へ行く道の途中にある連江県中心部の陳第公園内にある。フィリピン華僑の出資により建設された。定海の沈船遺跡関係の展示などがある。なお陳第(1541-1617)は戚継光・兪大猷幕下の名将で連江人である。 [掲載写真撮影日・最終調査日2003/05/10] |
★その他の海外交流史跡
普光塔(雲居塔) 可・▲ |
|
(準備中) |
連江県東岱鎮。元・至正1350年建設。海上交通の目印。 |
●平潭エリア
●.琉球国駙馬墓跡 ★★★・可・▲ |
|
りゅうきゅうこくふまぼあと |
|
|
福州市平潭県蘇澳鎮猫頭□[王+乾]村の北東海岸。平潭は別名・海壇。福建省最大の島で、面積は370.9平方メートル。キリスト教徒が多い。2010年12月に大陸と平潭島(福清市赤表埠頭と平潭県の娘宮埠頭)が平潭海峡大橋で架橋されたため、車で簡単に渡ることができる。猫頭□[王+乾]村はその最奥部で、道は細く舗装されておらず、雨天などの場合は危険。大型マイクロなどは進入不可能。また墓跡(写真向かって右の黒矢印付近)は崖下の岬にあり、到達は相当困難である(※細い道があるそうだが管理人は安全面を考慮して断念した)。 嘉慶12(1807)年に琉球から派遣された封接使(冊封使を迎える使者)が、福州に向かう途中に海壇(平潭)島観音澳で座礁した。その後、清官に護送されて福州に向かうが、再度この地に座礁し破船する。生存者30名、溺死者63名、行方不明者37名であったという。この事件の死者の墓が、琉球国駙馬墓である。面積60平方メートル、4メートル×7メートルの二段式で一番上には三合土の頂きがあったというが、現在は既に墓はない。また墓の前に花崗岩の墓碑が20余枚あったというがこれも既に散逸してしまい、一部が文化館に残るのみである。なお駙馬は「婿」の俗称で、乗船していた琉球の死者の中に琉球国王の婿がいたため、そのように名付けられたという(民国『平潭県志』巻8)。 [掲載写真撮影日・最終調査日2011/02/18] |
●.平潭県文化館(琉球人墓碑) ★★・▲ |
|
へいたんけんぶんかかん(りゅうきゅうじんぼひ) |
|
|
平潭県城関東大街16号(旧城区海壇中路の東大客運駅のそば)。文物室の倉庫(4F)に琉球国駙馬墓にあった以下の墓碑が収蔵されている。通常は施錠されており、あらかじめ連絡を取っておく必要がある(電話24176606)。 ※管理人はあらかじめ複数回にわたって連絡を入れ見学の許可を取ったにもかかわらず、館の都合により見学ができなかった。 ◆墓碑 1.琉球国/那覇府接貢船/新垣筑登之親雲上 2.琉球国/久茂地村五主阿/波連筑登之 3.□□□[琉球国]/□□…□事久米府/□□…□□[親]雲上 4.□□[琉球]国/那覇府大夫□□…□/内嘉手川子□□…□ 〔典拠〕琉中関係研究会編『中国福建省における琉球関係史跡調査報告書』(同研究会、2009) [掲載写真撮影日・最終調査日2011/02/18] |
★その他の海外交流史跡
平潭旧街 可・▲ |
|
|
清・康煕22(1683)年、清朝は海壇鎮を福清海口の東城にある援剿鎮から平潭(現在の潭城鎮)へ移し、雍正8(1730)年に県丞を置いた。潭城鎮の南街・北街付近が当時の県城で、右営・城中・轅門などの地名や、古い民居(写真)などが残る。北街の一角には基督教城関教堂一党がある。 [掲載写真撮影日・最終調査日2011/02/18] |
●その他の郊外の海外交流史跡
★その他の海外交流史跡
黄檗山万福寺 可・▲ |
|
|
福清市の西南(漁渓鎮聯華村)にある。日本の黄檗宗の祖寺である。789(唐・貞元五)年に創建され、初めは般若堂と言ったが、後に万福寺の名前を下賜された。明・嘉靖年間、倭寇の騒乱によって堂宇は灰燼に帰したが、1637(崇禎十)年に隠元禅師が募金を募って修築した。しかし1950年に火災に遭い、僅かに法堂のみが残った。山上には蔡襄・朱熹(宋)や葉向高(明)の摩崖題刻がある。1654(清・順治十一[承応三])年、隠元は長崎の興福寺の住持・逸然らの招きによって渡日した。1658年、将軍・家綱に謁見し、幕府は京都近郊に寺地を与えるとの意向を示した。1661年、隠元は宇治に黄檗山万福寺を創建した。 [掲載写真撮影日・最終調査日2001/10/21] |
雪峰寺 可・▲ |
|
|
雪峰崇聖禅寺。福州市から約77キロ、閩侯県大湖郷雪峰山の南麓にある。僧の義存(822-908)が唐代の870年から建立を始め六年後に完成した。明清両代に一度ずつ修築された。寺前の二本の古樫は義存と王審知の手植えである。 [掲載写真撮影日・最終調査日2003/05/22] |
[中国における琉球関係史跡の紹介・トップページへ]
[琉球史研究リンク集へ]
*本サイトにおけるコンテンツを引用される場合は典拠(サイトアドレスなど)をご明記ください。営利目的の無断転載は禁止します。(Copyright©,
Watanabe Miki. All Rights Reserved.)