[漳州]  

●漳州とその近辺

漳州府文廟・漳州石牌坊・月港周辺(晏海楼・海澄文廟・海澄城隍廟・豆巷など)趙家堡・詒安鎮・錦江楼

 

・琉球との関連性を「(小)〜★★★(大)」で示します(※作者の独断によります)。

・琉球とは直接的に関係のない史跡もあります(※日本ほか広く海外交流に関する史跡についても説明しています)。

・自由に見学ができる史跡には「」のマークがついています。「」マークがないところも手続きを踏めば基本的に見学できます。

・見つけにくい史跡や個人旅行では行きづらいと思われる史跡には「」のマークがついています(※これも作者の独断によります)。

 

●漳州市内

●.漳州府文廟 

しょうしゅうふぶんびょう

漳州市薌城区修文西路(※明清歴史地区内)。清・乾隆『漳州府志』によれば、1044(北宋・慶歴四)年にこの地に建設され、1112年に州左に移転したものの、1139(南宋・紹興九)年にまた元の位置へ戻されたという。明清両代にわたって数次の修築を経ている。明・崇禎年間の郡守・曹荃大の書になる「游聖之門」の石製扁額や、康煕年間の地方官による修建碑、1924(民国十三)年に康有為が撰写した「重修漳州学宮碑」などが残っている。

▼な1607年に同郷の阮国とともに福建省漳州府龍渓県から琉球・久米村へ移住した毛国鼎は、琉球儒学の先駆者・四先生の一人とされている(程順則[名護親方]『廟学紀略』)。

 

[掲載写真撮影日2006/22/06最終調査日2008/12/27

●.漳州石牌坊 

しょうしゅうせきはいぼう

漳州市薌城区(※明清歴史地区内)。牌坊とは孝子や節婦など模範的な行為・功労のあった人物を表彰・記念するために建設された鳥居型の門のことである。漳州には明代の尚書探花坊[写真]・三世宰貳坊、清代の勇壮簡易坊・閩越雄声坊が残っている。

・尚書探花坊:林士章(漳浦人・1559年の探花[殿試の三位]。南京礼部尚書)のために1605年に建てられた。

・三世宰貳坊:蒋孟育(南京吏部右侍郎)とその父(玉山)・祖父(相立)のために1619年に建てられた。

・勇壮簡易坊:戦闘中に福建水師提督・施琅を救った藍理(1649-1720)の功績を讃え、1707年に康煕帝が賜建した。

・閩越雄声坊:総鎮福建全閩総兵官を勤めた許風のために1722年に康煕帝が賜建した。

 

[掲載写真撮影日2006/22/06最終調査日2008/12/27

●.漳州府衙門跡 

しょうしゅうふがもんあと

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Zhangzhou_fuyamen.JPG

漳州市薌城区府埕路北端中山公園。清代。唐・貞元2786年に現在の位置に政治に政治の中心が移って以来、州・路・府・道などの衙門はずっとこの場所に置かれた。1919年に中山公園の中に包摂された。清代の衙署は1200平方メートルで南に面している。1919年以降何度も重修を経たが、基礎だけは昔と変わらない。現在は僅かに厚さ1.2メートルのカベが東から西へ向かって残るのみである。

 

[掲載写真撮影日最終調査日2008/12/27

 

◆漳州・明清歴史地区の地図

   

 

●漳州郊外1[龍海市海澄鎮の旧・月港付近]

月港は、九龍江の河口に位置し、その形が月に似ることからこの名がある。明朝の海禁政策下において、景泰年間1450-1456年)ごろから密港船の出航地となり、1567年(隆慶元年)の海禁緩和政策の中で唯一の出海地点に選ばれたことから、万暦年間1573-1619年)には繁栄を極めるようになった。このころの月港は「小蘇杭」(小さい蘇州・杭州)と呼ばれる程であったという。

月港が出海地点に定められる少し前の1565年、ここに海澄県が置かれ、1567年には県治の竣工が告げられた。なおこれより先の1551年、月港には靖海館という官署が置かれたが、後の1563年に海防館と改称され、海防同知が置かれて、海上の治安維持を担当することとなった。こうした海防の諸施設の整備の中で、1567年に海禁が緩和され、「東西二洋への出海および商販」が許可されるに至ったのである。出海する商船に対し、海澄県は、海上を出入りする商船の検査、税金(関税)徴収、およびそれと引き替えの文引(交易許可証)発給、また密輸品の摘発などを行った。なお海禁緩和の中でも日本(および琉球)への航海・貿易は禁止されたままであったが、日本へ密航する船は跡を絶たず、日本の銀と中国の生糸のバーターを軸とした海上貿易が盛んに行われた。

月港は天啓年間(1621-1627年)に衰退し、清代康煕231684)年に廈門に海関が設置されると、その対外交易港としての歴史を閉じた。

〔参考文献〕

小葉田淳「明代漳泉人の海外通商発展」『金銀貿易史の研究』法政大学出版局、1976年。

佐久間重男「明代後期における漳州の海外貿易」『日明関係史の研究』吉川弘文館、1992年。

 

海澄文廟                                                                                                                                   

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Haicheng_wenmiao.JPG

海澄鎮民政路。旧西城にあった。現在は龍海第二中学校(龍海二中)内に復元され図書館となっている。また校庭に遺物が散在している。

なお崇禎『海澄県志』附図には、県城・西城・港口城の三城が記されている。

 

掲載写真撮影日2007/12/22最終調査日2008/12/27

海澄城隍廟                                                                                                                                

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Haicheng_chenghuangmiao.JPG

海澄鎮城隍路(電話0596-6753183)。本来は旧城内にあったが、現在は校外の新区に移転。碑文(康煕36年・乾隆36年・道光13年など)が保存されている。

 

掲載写真撮影日・最終調査日2007/12/22

晏海楼(八卦楼)                                                                                                                         

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Haicheng_yanhailou.JPG

港口の東端にある、万暦81580)年に創建された軍事施設。六角形四階建て。海澄県志』によれば「月港の最盛期には倭寇が常に襲来したので、戚継光(武人)が兵を率いて月港から出撃し倭寇を打破したのである。海防強化のため、海澄県は石の城壁を築き、兵を駐在させて守備させ、晏海楼・鎮遠楼を建てた」という。

※現在は民家に取り囲まれている。

 

掲載写真撮影日2007/12/22最終調査日2008/12/27

旧埠頭付近                                                                                                                                

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Haicheng_matou.JPG

現在、港の痕跡は僅かしか確認できない。旧港付近には七つの埠頭が残るほか、その付近で出土した古船の大鉄錨が廈門大学人類博物館に展示されている。「容川埠頭」旧址には、石板で作った入江の中の道が延び、東側の港口橋は明代の万暦年間に建設された。写真は「玉枕埠頭」(玉枕村)付近。

 

掲載写真撮影日2007/12/22最終調査日2008/12/27

豆巷                                                                                                                                         

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Haicheng_douziang.JPG

容川埠頭付近の「豆巷」は月港が最も栄えていたころの貿易地である。両端に玄天上帝廟があり、向かって左手の上帝廟の脇には「修埠頭功徳碑」(乾隆23年)がある。

 

掲載写真撮影日2007/12/22最終調査日2008/12/27

旧県衙門跡                                                                                                                                

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Haicheng_yamen.JPG

海澄鎮民政路の月港公園内。明清代の県衙門および武廟の跡である。清代の碑文(乾隆29年など)や大砲がある。

 

掲載写真撮影日2007/12/22最終調査日2008/12/27

 

◆龍海市海澄鎮の地図

   https://ryukyuhistory.web.fc2.com/china_ryukyu/Haicheng_map.jpg

◆海澄鎮図(乾隆『海澄県志』)

 

●漳州郊外2[漳浦県(漳州から約70キロ)]

 

趙家堡                                                                                                                                

漳浦から約38キロ離れた湖西族自治郷趙家村にある。南宋滅亡時に宋皇族(趙若和)が逃れ、姓を趙から黄に変えて、隠れ住んだと伝えられる(※なお姓は明初に「趙」に戻された)。堡自体は趙氏十世・趙范(隆慶5年進士)が1600年頃に「内城」を築いた。「内城」とは堡の中心にある方形の「完璧楼」(周長88m・三階建)[写真]であり、堡主の住居である。「三合土」(砂・餅米・砂糖水+土を混ぜ合わせて作る)と呼ばれるこの地方独特の材料で作られている。なお現在は安全面の問題から、この楼内に入ることはできない。

その後、趙范の子・趙義(中書舎人)は、内城だけでは海寇の攻撃に耐えられないと考え、1634年に「外城」を増築し規模を拡張した。これにより周囲に堅牢な城壁(周長1062m、厚さ2.5m、高さ4-5m)が築かれた、要塞型の村となった。なお内部には多くの家・廟・池があり一村を形成している。

 

〔参考文献〕岡田健太郎『客家円楼』旅行人、2000年。

掲載写真撮影日2002/12/22最終調査日2007/12/22

詒安堡                                                                                                                                

趙家堡から約1キロのところにある湖西族自治郷城壁村(周長1.2キロ)。1688(清・康煕27)年、太常寺卿・黄性震が資金を出して建設した。黄性震は明初の鎮守仏潭橋指揮使・黄寿夫の子孫で、黄寿夫は南宋滅亡時に浦東へ逃れてきた宋皇族・趙若和の侍臣・黄材の曾孫である。元末に浦東は倭寇の襲撃にさらされたため、黄寿夫は莆田に逃れて反元を唱えて挙兵し仏潭橋の鎮守となったが、第一次抗倭戦争の中で香山において戦死した。その子孫が嘉靖年間に仏潭橋に梅月城を建て倭を防いだが、明末の争乱でこの城が破壊されたため、一族は湖西に移り住み、清初の遷界令の中で完全に湖西に居を移した。その後、順治年間に、湖西に移住せず広東省の海豊に移住した黄易(順治16年の進士)が、福建に赴任した際にこの地を訪れ、出資して簡易な宿舎を建設した。しかしそれは一族の人々が居住するには十分なものではなかったため、同族人の黄性震が湖南布政使になった際に出資して現在のような堡を作った。

詒安堡の城壁(1200m)の上には見張り台が、城壁の上部には銃眼が空けられており、趙家堡同様に要塞型の村である。その中心に、既に廃墟となっているが方形の梳■(状−犬+女)楼がある。これも三合土で作られている。また城南・城北に黄氏の宗廟が分設されており、それぞれに康煕年間の江西道御史・銭三錫と翰林院庶吉士・査昇などの碑刻三点が保存されている。

 

〔参考文献〕同上。

掲載写真撮影日2002/12/22最終調査日2007/12/22

錦江楼                                                                                                                                

沿岸部の深土鎮錦東村にある(※趙家堡から車で40分程度)。円形土楼だが、著名ないわゆるマンション・タイプではなく完全な要塞型。有事(主に村同士の械闘と考えられる)の際に立てこもる巨大な楼である。三重構造で、一番内部のものが1791(清・乾隆56)年の建造、中間のものが1803(清・嘉慶8)年の建造という。この楼も三合土で作られている。周辺に林氏の一族が住んでいる。

近くに廃墟となった同タイプの円楼・瑞安楼がある(深土鎮から漳浦県へ向かう道から、錦江楼へ向かう一本道へ曲がる角のところに見える)。この楼は文革期に放棄されたという。

なお漳州は械闘(部落間闘争)がはげしかったことで有名である(他に泉州・潮州なども械闘が盛んだった)。

 

〔参考文献〕同上。

掲載写真撮影日2002/12/22最終調査日2007/12/22

 

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