日本における琉球関係史跡の紹介

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   日本各地(奄美諸島以外)における琉球関係の史跡の場所・概要・参考文献などを紹介します。

   調査・研究を進めながら、随時、書き足しています。

九州

●鹿児島[北部1] 宮之城・薩摩・入来・川内・串木野・市来など

宮之城

宮之城歴史資料センター

さつま町宮之城虎居5228504号線沿い)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma5_Miyanojyo.JPG

◆「中山朝熹」の書:浦添朝熹(尚元魯、?-1875年)の書か。

※宗功寺(号は大徳山、臨済宗、京都妙心寺末。宮之城島津家の菩提寺)の遺品。廃仏毀釈後、個人宅に保管されていたもの。

[写真撮影日2009/08/21

薩摩

年行寺(念行寺)跡

さつま町永野(旧・薩摩町永野)。金山郵便局(50号線沿いに看板)向かって左上方向の墓地(かつて寺山墓地とよばれた一帯)。

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma5_Satsuma.JPG

臨済宗安養院年行寺。曾木にあった志布志大慈寺の末寺・広徳寺の末。本尊は観音大士。開山は明元和尚。現在は墓地だけが残る。

琉球僧・釈無名の『寛延三年観音堂記』によれば、「往古一農夫ありて、夜に当り田圃に耕耘す。荒草の中に霊光ありて、天を照輝す。其地を掘るに観音大士の像を得たり。帰て是を奉ず。屡霊験を著す。因て里民此地に庵を結ひて禅を修す(略)」という。一旦衰微するが、琉球僧の玄超禅師が中興した。以後、琉球僧が五代続いて住持となった。(『三国名勝図会』巻42

 

墓1(写真・左端):墓碑銘「[正面]琉球国伍徳□勝林徒/[背面・右]享保十四己酉九月二十一日□/[背面・左]□□□□□□□和尚之塔」(享保14年=1729年)

墓2(写真・中央):墓碑銘「[正面]琉球僧仙江院徒也/[背面・右]宝暦六年丙子九月二十九日/[背面・左]前住當院妙心第一座九知牛和尚立焉自弟子中」(宝暦6年=1756年)

墓3(写真・右端):墓碑銘「[正面]琉球僧□岸軒徒/[背面・右]寛保三癸亥四月十九天/[背面・左]前住雪峯知電俊板□塔」(寛保3年=1743年)

※現在、苔などのため文字はよく読めない。上記墓碑銘は、『薩摩町郷土誌』の翻刻記事をベースに、若干の肉眼観察の成果を反映したものである。

 

◆釈迦涅槃図(泉福寺所蔵)[写真・下]:絵巻の裏に1760(宝暦10年の補修について施主10名や表具師の名前が記される。施主の筆頭は「琉僧智璨(燦カ?)」で、智璨は「当仮住」であったという。

・さつま町永野寺元(永野郵便局のそば)にある泉福寺(浄土真宗本願寺派、1872年創建)に所蔵されている年行寺の遺物と言われる二点の内の一点である。なおもう一点は釈迦誕生仏。釈迦涅槃図は、明治初年の廃仏毀釈の時に宿主の平某が譲り受け、その後、泉福寺に譲渡され保管された。現在、さつま町指定文化財で、一般公開日は2/16である。

 

◆年行寺の棟札[南方神社所蔵]:南方神社(さつま町広瀬)に「金山安養院琉球僧」云々と記された棟札が保存されている。

◆琉球国王尚豊の書簡[橋口家文書]:川上左近将監(1630に藩の家老に任じられている久国か)の側近衆に新年の贈品(太平布20端・焼酎1)を届ける内容。薩摩町の橋口家文書に含まれている。全文が『薩摩町郷土誌』に収録されている。

 

〔参考文献〕薩摩町郷土誌さん委員会編『薩摩町郷土誌』薩摩町1998

[写真撮影日2009/08/21

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入来

入来町郷土館

薩摩川内市入来町浦之名33

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◆入来院家本家で使用されていた琉球漆器(塗膳)。

・郷土館には入来文書を中心に、中近世の武具・衣類・美術工芸品、近代の民具などが収蔵されている。またその周辺には入来麓武家屋敷群(国の重要伝統的建造物群保護地区)が広がっている。

 

[写真撮影日2011/01/22

川内

川内歴史資料館

薩摩川内市中郷2-2-6

(準備中)

琉球と直接的な関連は確認できないが、新田神社文書や江戸時代の船大工・樗木家(おうてきけ)関係資料(ともに国指定文化財)が所蔵されている。また資料館のサイト(↓)から詳細な周辺史跡のマップがダウンロードできる。

http://rekishi.satsumasendai.jp/index2.htm

新田神社

薩摩川内市宮内1935-2

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8-9世紀の創建。別称:新田八幡宮。現存の社殿は慶長61601)年に再建されたものを嘉永31850)年に改築したものである。

◆扁額「安永二年癸巳林鐘吉日/載徳/球陽摂政尚和読谷山王子朝恒謹立」

「篆字朱ぬり金字」(高木善助『薩陽往返記事』「薩隅日三州経歴之記事」P.652

「コノ額新田宮ニアリ、堅二尺横三尺余、辺地黒金ノ登龍、中ハ字金ニシテ地朱ナリ、書見事ナリ」(「薩遊紀行」『史料編集室紀要(沖縄県教育委員会)』312006年、P.227

・読谷山王子朝恒(1745-1811、名乗は1777年に朝憲に改めた)は首里王府の摂政。尚敬王の第二王子で、尚穆王の弟である。1773(安永二)年に敬姫の慶賀のため薩摩に赴いた。なお林鐘は六月の異名。

※扁額は正殿内部に掛けられている。見学に際しては事前に連絡をして予約する必要がある。

[写真撮影日2011/01/22

泰平寺跡

川内市大小路町

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真言宗の寺院で、医王山正智院と号した。天正151587)年、九州征圧を企図して薩摩におもむいた秀吉軍の本陣となる。58日に島津義久がこの寺で秀吉に降伏を申し入れた。降伏は住持・宥印の斡旋によるものとされる。この降伏を記念する和睦石(写真)が現存する。またその裏手の墓地に宥印ら歴代住持の墓が残る。江戸時代には大乗院の末寺であったが、幕末〜明治初年に廃寺となった。現在は高野山真言宗の泰平寺が設立されている。

 

 

[写真撮影日2011/01/23

渡唐口(ととんくち)

向田。川内歴史資料館のマップ参照

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川内(せんだい)川の船着場。中国に渡るという意味ではなく「遠いところに行く」という意味でこの名称になったとされる。河岸に向田御仮屋が置かれ、その東隣に渡唐口があった。参勤交代の際に、藩主はここで乗船し、久見崎から海路で大坂へ向かった。また江戸期には宮之城からの上納米が川内川を下ってここで荷揚げされた。

 

 

[写真撮影日2011/01/22

京泊(きょうどまり)浦

川内川河口部

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川内川河口部にあった浦浜。川中の船間(ふなま)島との間に水路があり、多くの船舶が出入りする川湊が発達した。慶長111606)年にはドミニコ派の宣教師が甑島の長浜村から京泊に移り、島津家久の許可を得て布教を始めたが141609)年に家久は宣教師の国外退去を命じた。現在火力発電所のある南側上方に京泊天主堂跡が残る。江戸時代には異国船番所・異国船遠見番所・津口番所・火立番所が置かれていた。「船手」(船手奉行所)も置かれていたが、のち対岸の久見崎に移転した

 

 

[写真撮影日2011/01/22

久見崎(ぐみざき)

川内川河口部左岸。西は外海に面する。

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久見崎16世紀後半より軍港的な機能を有し、江戸時代には藩内最大の軍港として整備された。「船手」が置かれ(※寛永年間に星原から移動)、藩船の造修復・管理・交通運輸の取締り・唐船に関する事務などを執行した。この久美崎で代々船大工の頭を勤めたのが樗木家(おうてきけ)で、この家に伝来した資料群が歴史資料館に所蔵されている。なお琉球の江戸上り使節は、川内に到着後、この久見崎から関船に乗って海路に出た。関船は、戦国期から江戸初期に軍船として利用された船で、以降は参勤交代等の重要な航海に使用された。藩内では久見崎だけがこの関船を所有していた。現在はコンクリートによる護岸工事が進み、旧港の面影は殆どない。

 

[写真撮影日2011/01/22

串木野

島平浦(串木野湊)

吹上浜の北端、東島平町・西島平町・長崎町・下名の一帯

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西に開けた浦を中心に発展した湊。慶長31598)年に島津義弘が朝鮮からこの湊に帰着。連行した陶工の一部も当湊に上陸し農業をしていたが、慶長8年に苗代川へ移住した。現在壺屋に串木野窯跡が残る。近世の産物は、鰺・鯖・鰯・秋太郎(バショウカジキ)など海産物。照島(写真右側)に照島神社があり、江戸時代には松尾大明神と称した。現在はコンクリートによる護岸工事が進み、旧港の面影は殆どない。

 

 

 

[写真撮影日2011/01/22

市民文化センター郷土資料展示室

鹿児島県いちき串木野市昭和通133

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センターのエントランス部分のスペースにいちき串木野市域の歴史・文化・民俗などに関する展示がある。琉球と直接的な関連は確認できない。なおいちき串木野市HP観光のページからマップなどがダウンロードできる。

http://www.city.ichikikushikino.lg.jp/ichikushi00/kanko.asp

 

 

[写真撮影日2011/01/22

市来

市来湊

大里川・八房川の河口部

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薩摩の重要な湊の一つ。大里川が南東部から北西へ流れ、湊町で八房川と合流して海に注ぐ。琉球の江戸上り使節は、山川→鹿児島→市来[伊集院](※但しこれらは陸路)を経て川内に入り、向田・大小路・皿山を廻り、久美崎から関船へ乗って海路に出た。

 

 

[写真撮影日2011/01/22

唐仁町

いちき串木野市湊町3018近辺

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藩政時代の湊町の字名の一つ。現在の浄泉寺の前の道の、寺の位置から後方(湊と逆の方向)部分に相当するエリア。天正121584年、島津氏家臣・上井覚兼は市来湊に来着した唐船から皿・茶碗・唐紙などの礼物を受領したことがある(「上井覚兼日記」同年1211日条)。市来町郷土誌編集委員会編『市来町郷土誌』(市来町、1982年)には、明治・大正年間生まれの古老達からの聞き取りをもとに作成された、往時の唐仁町を含む湊町の詳細図が掲載されている。

 

 

[写真撮影日2011/01/22

七夕踊り

いちき串木野市大里

(準備中)

 

国指定の重要無形民俗文化財で、旧暦七月七日頃に大里の田圃で行われる。新田開発に努力した床濤到住を供養するもので、島津義弘の朝鮮の役の凱旋祝に踊られたのが始まりといわれる。大里の全集落の青年を中心に数百人が太鼓踊を真ん中に鹿・虎・牛などの作り物の踊や琉球王行列・大名行列などを行う。

日置

神之川浦

神之川の河口一帯

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神之川の河口一帯。河口の北側が市来郷神之川浦、南側が伊集院(いじゆういん)郷神之川浦である。文禄・慶長の役の時には糧船等をこの湊から送り出し、また串木野の島平浦とともに連行された朝鮮陶工が最初に上陸した所と伝えられている。

 

 

 

[写真撮影日2011/01/23

苗代川村跡

日置市東市来町美山および東市来町美山元寺脇の全域

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慶長3年(1598)、慶長の役で島津義弘が朝鮮半島から連行した朝鮮人を居住させた場所で、現在も薩摩焼の工房が存在している。連行された朝鮮人70余人の内、43人が島平浦に、10余人が神之川に、20余人が鹿児島城下の高麗町に居住させられた(「伊集院由緒記」)。その後、慶長81603に串木野の者がここに移住させられた。慶長191614)年、島津家久が朴平意に細工所を与え白焼物を作成させ、庄屋役に任じた。以後この地で焼かれた陶磁器を薩摩焼という。薩摩焼には白薩摩と黒薩摩があり、前者の陶土は指宿の成川や肥後天草などから運ばれて高級品が製作され藩へ納入された。黒薩摩の陶土は近辺のもので製品は市販もされた。1709年に地頭仮屋が下谷口から出水筋沿いのこの地に移転した。陶工等によって村の北西に朝鮮宗廟の神・檀君を祀る玉山宮(現在の玉山神社)が創建されたが、明和31766)年に島津氏が陶器神として祭祀をするようになり社殿が造られた。玉山神社の下方にある墓地には朝鮮陶工の墓が散在している(写真は陶工季氏元祖の墓)。

[写真撮影日2011/01/23

広済寺跡

日置市伊集院郡(旧・郡村)の神之川の北岸

(準備中)

京都臨済宗五山の南禅寺の末寺。1450(宝徳2)年、強力な外護者であった伊集院熙久の没落により一時衰退したが、伊集院一族の町田忠栄息雪岑が七世住持となって復興した。雪岑は南禅寺僧録職を許可された名僧で、島津義久の帰依が厚く、1570(元亀元)年に島津義久の命で琉球へ使者として赴いている(同年七月二七日「中山王書状」町田氏正統系譜)。その功績として本寺の田をたまわったという(『三国名勝図会』巻8)。

※善福寺:下谷口村にあった広済寺末寺。雪岑が琉球に使した際に祈誓をなし帰郷の折に建立した五社の一という。本寺に関しては正確には再興。(『三国名勝図会』巻8

 

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