日本における琉球関係史跡の紹介

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   日本各地(奄美諸島以外)における琉球関係の史跡の場所・概要・参考文献などを紹介します。

   調査・研究を進めながら、随時、書き足しています。

九州

●鹿児島[鹿児島市およびその近辺] 

鹿児島琉球館跡

鹿児島市小川町3-10(鹿児島市立長田中学校の裏門近く)

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琉球から薩摩に派遣される上国使者や稽古人(留学生)の鹿児島における滞在施設。鹿児島城の北側にあり(17世紀末頃までに東南から移転)、1784年に琉球仮屋(琉仮屋)から琉球館に改称された。当初は琉球からの人質の居館であったが、17世紀後半からは琉球唐物や砂糖の貿易拠点と化していった。また薩琉交渉の拠点の一つでもあった。

・「其国の官人、王に代り交番述職して、絶ることなし。門内に双旗を樹つ、其製奇にして、風に翩翻すれば、毒獣の飛動するが如く。人物の状貌衣冠等、皆異にして、これに過るもの、正に殊域に遊ふに等し」(『三国名勝図会』)

・「琉球館を一見せしに、門番有りて内に入る事を禁ぜり。およそ百人ばかりは鹿児島へ渡り居て琉球の産物を売買し、または交易する事にて、何れも日本の言葉を七八分もつかふといえり」(『西遊雑記』P.359

◆琉球館の史跡碑(※見学に際しては事前に学校の許可が必要です。

〔参考URL長田中学校HP

〔参考文献〕喜舎場一隆「薩摩藩の琉球統治機構」『近世薩琉関係史の研究』国書刊行会、1993年。深瀬公一郎「近世日琉通交関係における鹿児島琉球館」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』482003年。徳永和喜「琉球館の設置と展開」『薩摩藩対外交渉史の研究』九州大学出版会、2005年。

[写真撮影日2001/08/21

鹿児島城(鶴丸城)跡

鹿児島市城山町5-1

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本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡に鹿児島県立図書館がある。琉球関係の史料・資料も豊富に所蔵されている。

 

[写真撮影日2005/06/25

宣成殿[孔子廟]跡

鹿児島市山下町4(中央公園)

(準備中)

島津重豪の命により、鶴丸城二の丸御門の前に1773(安永2年に作られた。初めは聖堂と呼ばれ、主に城下士の指定に朱子学が教授された。後の造士館。

◇殿門の扁額「入徳」(記録のみ):琉球国王・尚穆の書(『三国名勝図会』巻2

弁才天廟跡

大門口

(準備中)

城内二の丸と坂本村にあったが、後に大門口に移転された。琉球の波の上護国寺の弁才天女を祀っていた。1609年、樺山久高が琉球を伐つ際に、海上に弁才天女が現れ「我は琉球波の上の弁才天女なり。我を供養せば汝を擁護すべし」と言ったと言う。(『三国名勝図会』巻3

磯庭園(仙巌園

鹿児島市吉野町字磯

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薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園1658年、島津光久が造園。琉球使もたびたび招かれた。

◆望嶽楼:琉球国王が献じたと言われる東屋がある。[写真]

◆竹および碑:元文元1736年に琉球王から薩摩へ送られたという江南竹(孟宗竹)二株について記された「江南竹記碑」がある(1837年)。[写真]

・「是年(1736)戌午五月五日、出港、六月野村勘兵衛良昌自琉球在番、以所回孟宗竹及楊柳夾竹桃箠孟竹等、献之磯館、故世以野村氏、為孟宗竹始云」(『南聘紀考』)

〔参考URL磯庭園HP

 

[写真撮影日2008/06/13

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光明寺跡

鹿児島市坂元町

(準備中)

大乗院の末寺。真言宗。本尊は聖観音。初めは「岩崎口」にあったが、慶長期に「坂本村水口」に移転。廃寺。琉球人の香火所であったため「琉球寺」の異称があった。

「〔尚貞王〕141682年、薩州の光明寺を請ひて琉球に属せしむ。/国相尚弘毅(大里王子朝亮)、命を奉じて薩州に到る。時に具疏して麑府の光明寺を琉球に属せしむるを請乞す。幸に太守公の兪允を蒙る。而して今球僧此の寺に住持し、且、寺院を修葺し、並びに住僧の俸米等は、琉館よりして出す。但、観音一像、仏堂一座は、猶薩州に属す。而して其の堂並びに神像を修葺するは、仍薩州の費に係る。」(『球陽』附巻二70番)

 

◇供養塔(記録のみ):「寺地に琉球国の王子官人等本府にて没せし輩の石塔あり」(『三国名勝図会』巻4

◇墓(記録のみ):「光明寺といふは、真言にて琉球寺なり。夫に有墓。」(『鹿児島ぶり』巻之二)

[→挿絵:天保四(1832)年に鹿児島で客死した前年の謝恩使・豊見城王子朝春の墓]

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南泉院跡

鹿児島市照国町

(準備中)

大雄山仏日寺南泉院。天台宗。鹿児島城の南側に所在したが、廃仏毀釈により廃寺となる。現在は照国神社が建つ。社前に「南泉院馬場」の石碑がある。

◇花瓶・香炉(記録のみ):「唐金花瓶一対、唐金香炉一対、花瓶以下の二品、中山王寄付、(後略)」(『三国名勝図会』巻4

南林寺跡

鹿児島県南林寺町23現・松原神社[NTT西日本鹿児島支店の裏手]のあたり。

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松原神社・松原小学校・南洲寺の一帯に存在した曹洞宗の寺院。1557年、創建。福昌寺の末寺。「松原山」と号し、広い松林の中にあった。1562年にはルイス・デ・アルメイダ修道士と本寺の住職が親しく交際していた(フロイス『日本史』)。現在は寺名のついた地名が残るのみである。明治2 (1869) 年の廃仏毀釈により廃寺となり、翌年松原神社が創建された。

 

◇本殿左右の焼物の柱の聯(記録のみ):「御本殿左右に焼物の柱に聯有。文字は瑠璃にて焼付有。『守業方知創業難為人奚道成人易』と有。右琉球国よりの献備也」(『菅の下葉』P.2681827年の鹿児島見聞録])

 

・南林寺由緒墓:鹿児島三越デパートから国道220号線を700mほど進むと左側に南洲寺があり、その隣に由緒墓がある。

◇墓(記録のみ):「南林寺のはかはらは、石塔何万と云数をしらず。(略)京、大坂、江戸の人のはかも有。琉球のはか、角力のはか、酒のみの墓有」(『鹿児島ぶり』巻之一)[→挿絵:琉球人之墓/琉球国/照屋筑登之親雲上]

浄光明寺跡

鹿児島市上竜尾町2。現在の南洲(浄光明寺)墓地(南洲公園)。

(準備中)

時宗の寺院。清浄光寺(現・神奈川県藤沢市)の末寺。1186年頃の創建とされる。明治2(1869)年の廃仏毀釈によって廃寺となった。

琉球人がしばしば参詣した。

伊佐敷道与の墓

鹿児島市3丁目・武岡墓地

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伊佐敷道与(1661-1730年)は琉球人・魏士哲 (高嶺徳明)から麻酔術を学んだ人物。魏士哲(1653-1738年)は中国語に堪能だったことか1669年に久米村に入籍した「新入唐栄人」1688年に小唐船の副通事として渡唐した際に、福建の医師黄会友から補唇(兎唇−みつくち−治療)の秘法を会得した。翌年帰国し、中城御殿で当時の王世孫・尚益の兎唇治療に成功する。1690、在番奉行・村尾源佐衛門の要請でその技術を披露し、薩摩の医師・伊佐敷道与にその秘法を伝えた。これらの功績により紫金大夫まで昇り、高嶺村地頭に任命された。

 

〔参考文献〕東恩納寛惇「医方漫談」『東恩納寛惇全集』91981年。大鶴正満「高嶺徳明の補唇術に関する考察」(ONLINE)。

 

[写真撮影日2008/06/15

福昌寺跡

鹿児島市池之上町48(玉龍高校の裏手)

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1394年の建立。曹洞宗。1549年にはザビエルがしばしば訪問。島津家の菩提寺だったが廃仏毀釈(明治2年)により廃寺に。島津家歴代の墓石が残る。また門を入って左手にある由緒墓の中に、琉球人の合葬墓が二基ある。

◆墓1:「旧琉球藩人之墓」

1908年、光明寺より移転93名。1921年、南林寺より移築。

◆墓2:「琉球僧之墓」

1908年、光明寺より移転21名。1921、南林寺より移築。

◇かつて境内に「一切経蔵旧址」があったという。琉球国王が朝鮮国王より得た大蔵経を、1502(文亀2)年に島津忠昌(円室)に献上したところ、忠昌は福昌寺に経蔵をかまえて、これを寄付した。1592(天正20年に細川幽齋の従者が略奪し、転じて石田三成の所蔵になるも、光成はこれを高野山に寄付したという。(『三国名勝図会』巻5

〔参考URL観光スポットナビ・福昌寺

〔参考文献〕『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993年。

[写真撮影日2007/10/13

大龍寺跡

鹿児島市大竜町11-44(鹿児島市立大龍小学校)。福昌寺跡の近く。

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瑞雲山大龍寺。臨済宗。1611年の創建。開祖は南浦文之。廃仏毀釈により廃寺に。

 

◇位牌1(記録のみ):1653(承応2)年の慶賀正使・北谷王子朝秀の位牌(同年332日に35才で病死。南林寺に埋葬)

◇位牌2(記録のみ):1682(天和2)年の慶賀正使・名護王子朝元の位牌(江戸からの帰途に鹿児島で病死)

 

〔参考文献〕宮城栄昌『琉球使者の江戸上り』第一書房、1982年。

[写真撮影日2008/06/15

広木小学校

鹿児島市田上町5511(広木小学校のフェンス外側)

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◆琉球人墓碑(無銘):詳細不明

 

〔参考文献〕『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993年。

[写真撮影日2008/06/15

琉球松

祇園洲公園(鹿児島市祇園之洲町)から旧道を400mほど進んだ右手海岸

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かつて稲荷川の河口港に入港する琉球人が目印にした。「琉球人松」とも言う。第二次大戦後に枯死し、現在の松はその後に植えられたものである。

 

[写真撮影日2008/06/13

大乗院跡

鹿児島市清水町8-15(鹿児島市立清水小学校)。

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経囲山宝成就寺大乗院。真言宗。廃仏毀釈により廃寺に。

◇琉球の「波の上護国寺」と、その末寺の「臨海寺・神宮寺・神徳寺・観音寺・万寿寺・神応寺・聖現寺」は、大乗院の末寺で、その符牒を受けていた。この符牒は、現在、坊津歴史資料センター輝津館に収蔵されている。またその全文は、『三国名勝図会』巻4に収録されている。

◇聯(記録のみ):「中門の聯四枚中山王の筆、此門前に石の龍半身を彫刻して、乱石の中より頭を擡げて水を吐く、奇観の手水鉢なり」(高木善助『薩陽往返記事』P.618

 

[写真撮影日2008/06/15

興国寺跡

鹿児島市冷水町4(比丘尼坂バス停の上手)

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曹洞宗。本尊は釈迦如来。福昌寺の末寺1496年の創建。当初は稲荷町にあった。その後、1508年頃、鹿児島城の御厩の山側に移転。天正31575年には、琉球聘使の宿館などとして利用されていた(「上井覚兼日記」同年三月二九日条など)。1602年、鹿児島城の築城に伴い、冷水の地に移転した。廃仏毀釈により廃寺となった。

 

◆郭国安(汾陽理心)の墓(写真・上)

◆伊地知季安・季通の墓(写真・下)

 

〔参考文献〕増田勝機「帰化人汾陽理心」『薩摩にいた明国人』高木書房、1999

[写真撮影日2008/06/15

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桂庵墓

鹿児島市伊敷町梅ヶ淵。

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桂庵玄樹が隠棲した東帰庵の故地。国指定史跡。桂庵玄樹は周防国山口の人。1467年、入明して朱子学を修め、1473年に帰国。1478年に島津忠昌の招きで入薩し、儒学を教授。その後、京都の建仁寺の住持などになるも、1501年に薩摩に戻り1508年に東帰庵で没した。その後、墓は忘れ去られていたが、1722年に墓石が、1838年に石塔が建てられた。さらに佐藤一斎の撰文を琉球人の鄭元偉が揮毫した碑文を刻んだ石碑(写真下)が墓の脇に建立された(『三国名勝図会』など)。

 

[写真撮影日2008/06/15

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玉里島津邸

鹿児島市玉里27-1(鹿児島女子高等学校・校内)

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薩摩藩の27代藩主・島津斉興が1835(天保6年に造営。西南戦争により建物は焼失したが、上御庭の一部と下御庭は現存している。 黒門を入ると正面にヒンプンと石敢当がある。日時計やキリシタン灯籠なども。

 

〔参考〕鹿児島女子高等学校HP

 

[写真撮影日2008/06/15

新垣筑兵衛の墓

鹿児島市吉野町・雀ケ宮の墓地

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◆墓:墓碑銘「(荒)村祖田居士」(正面)、「文化八年八月廿八日 新垣太郎ェ門」(左側面)、「新垣筑兵衛妻」(右側面)、「新垣善之進 仝善之丞 仝八十八 仝善之丞妻 仝善太郎 仝彦兵衛 川内彦左衛門 同人妻」(裏面)

(文化八年=1808年、新垣太郎ェ門は二代目の仁右衛門か)

・墓主の新垣筑兵衛は、三度渡唐し、唐紙の製造法を学んだ琉球人(渡嘉敷島出身)である。1786年、薩摩は彼を移籍させ藩士に取り立てた。その後、息子も上国した。現在は新垣を「にいがき」と読む。

 

〔参考文献〕仲地哲夫「新垣筑兵衛の墓」『地域と文化』741992年。『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993年。

[写真撮影日2008/06/15

花尾神社

鹿児島市花尾町4193

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1218年の創建。近世期に島津氏の祖廟と見なされるようになり、島津氏の尊崇を集めた。琉球使節も参詣するようになり、安永二年(1773)・天明七年(1787)使節が奉納した扁額が残る。安永二年の使者は、前年に逝去した浄岸院(五代将軍徳川綱吉養女竹姫、島津継豊室)の一周忌のために派遣された。天明七年の使者は、将軍家治逝去に伴う使者として派遣された。

◆扁額1「安永二年癸巳菊月穀旦/澤敷海國/中山王世子尚哲謹立」(1773年)[写真下]

◆扁額2「安永二年癸巳賓鴻吉旦/贍仰/球陽摂政尚和読谷山王子朝恒謹立」(1773年)

◆扁額3「天明七年丁未菊月吉旦/蔭長/今帰仁按司朝賞謹立」(1787年)

◆扁額4:「天明七年丁未菊月吉日/無斁/琉球國使者/盛島親雲上朝朗/伊集親雲上朝義/冨里親雲上朝永」1787年)

※扁額5:「天明七年丁未菊月吉旦/朝宗/琉球國使者/幸知親方良篤/安次富親方良頭/渡慶次親方真厚/阿波根親方朝紀」(1787年)→黎明館に寄託[※未確認]

◇鐘楼の鐘(記録のみ):琉球国王・尚敬の献上した鐘が掛けてあったという(『三国名勝図会』巻10)。

 

〔参考文献〕郡山政雄「琉球関係の扁額」『鹿児島民俗』106号、1995年。郡山郷土史編纂委員会編『郡山郷土史』鹿児島市教育委員会、2006年。

[写真撮影日2008/06/15

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一之宮神社

鹿児島市東俣町(南部の川田川東岸)

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祭神は島津忠久・丹後局・惟宗広言。旧村社。江戸時代まで「一之宮大明神社」と称される。花尾神社の近くにあり、祭神も同社と関連が深い。天明7(1787)には琉球使節の参詣があり、同年の扁額が残る。

 

◆扁額1:「天明七年丁未菊月吉旦/徳馨/幸知親方良篤/安次富親方良頭/渡慶次親方真厚/阿波根親方朝紀」(1787年)[写真下]

◆扁額2:「天明七年丁未菊月吉旦/永頼/今帰仁按司朝賞謹立1787年)

 

〔参考文献〕郡山政雄「琉球関係の扁額」『鹿児島民俗』106号、1995年。郡山郷土史編纂委員会編『郡山郷土史』鹿児島市教育委員会、2006年。

 

[写真撮影日2008/06/15

https://ryukyuhistory.web.fc2.com//Japan_Ryukyu/Satsuma1_Ichinomiya2.JPG

 

※本ページは、2008年度文部科学省特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」海域研究会巡検による研究成果の一部です。

 

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