日本における琉球関係史跡の紹介

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   日本各地(奄美諸島以外)における琉球関係の史跡の場所・概要・参考文献などを紹介します。

   調査・研究を進めながら、随時、書き足しています。

九州

●鹿児島[東南部] 志布志・高山・内之浦・根占・垂水など

志布志

大慈寺

志布志市志布志町志布志2-1-19

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臨済宗妙心寺派の古刹。1340年の創建。龍興山と号す。廃仏毀釈により廃寺となったが復興され現在に至る。外交に精通した五山系禅僧が歴代住持を勤め、琉球関係では1588年より琉球と島津氏との折衝に従事し、1609年の島津氏の琉球侵攻に際しても使節として島津軍に同行した龍雲和尚(45代住持)が有名である(『旧記雑録』後編23、『喜安日記』ほか)。

 

◆墓1:墓碑銘「琉球国僧/圓寂 閑田安公後板禅師覚位/元禄拾二己卯/閏九月初八日」【写真・上(向かって左)】

1699(元禄12年。大慈寺境内の本堂向かって左手の墓地(宝地庵)。

◆墓2:墓碑銘「琉陽首里大雲寺徒/天真禅籟知蔵/寛政十戊午年/十月二十八日」【写真・下】

1798(寛政10)年。大慈寺開山堂(志布志市役所志布志支所の駐車場の隣)の墓地の中。首里の大雲寺については不詳。

◆大慈寺琉球国吹嘘状・琉球国門派転位入用式目など古文書類

琉球国僧の法階転位の推挙の書状などである。

・「元禄五年十月朔日、琉球国蓮華院脱心の法子宗智字は徳叟が妙心寺に上り、転位の時、龍雲之を吹嘘せり。徳叟は南化の法嗣たる龍雲の下に属する薩州絶海の法孫でありし故なり。」(妙心寺史)

・式目の規定では一切の経費が銀6314分とされるが、後に琉球は遠国であるなどの路雄で経費の半減が認められたという(大慈寺文書の口上之覚)。この時法階転位に推挙されたのは、琉球国中山府桃昌院雲山座の禅僧・湧泉と恵明の二名であった。

 

〔参考文献〕『志布志町誌』上、志布志町役場、1972『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993年。

[写真撮影日2008/09/22

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津口番所跡

志布志市志布志町志布志(千軒通りが前川に突き当たる所)

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江戸時代の志布志湊は琉球・大坂方面への物資の中継地として、また南大隅および日向諸県郡の蔵米の集積地として栄え、物資の出入りを監視する津口番所が置かれていた。現在も石垣が残っている。

 

[写真撮影日2008/09/22

児玉伝左衛門の墓

志布志市志布志町

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・沖縄・糸満の白銀堂由来(道光二年版)に「首里の人・浦主が薩摩志布志の児玉左右衛門からの借金を返せず殺されそうになったが、糸満の人・馬子が「心怒る時手を引き、手動く時は心を戒む」と告げて間に入り、来年自分が代わりに返金すると約束して児玉を納得させたとある。伝承ではあるが、志布志には実際児玉家という廻船問屋が存在していた。現在は家系も墓地も失われたが、縁者の藤田家墓地の中に、次の墓が残っていた。この墓は、現在、下小西児童公園内(志布志市役所志布志支所の手前)に保存されている。またその横には志布志の船頭であった「日本どんの墓」も残されている。

◆墓:墓碑

[右側面]「八十余歳行路難 無縫住削影団々 湘南華北黄金国 吼渡秋濤八里灘 前即心 一鳳」

[正面]「翠雲亭一道貫居子」

[左側面]「文政八年酉十二月二十五日 児玉伝左衛門実好 八十一才」

※文政8年=1825年。大慈寺即心院の住僧一鳳は琉球僧であるという。即心院は大慈寺に16あった支院の一つで、6代島津氏久と敬外夫人の墓碑が残されている(※志布志市役所志布志支所の手前)。

〔参考文献〕『志布志町誌』上、志布志町役場、1972

[写真撮影日2009/08/19

東串良町

明山寺跡

東串良町唐仁(上住)

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曹洞宗。高山瑞光院の末寺。大塚大明神(現・大塚神社)の別当寺。地内薬師堂の天正191550)年の棟札には大明国人・薬一達が堂主として記されている。安永71778年の造立棟札には唐仁町の豪商堀口種右衛門の名も記されているという。

◆琉球国越山建立の観音像(文化151818年):琉球人僧・越山の建立した石造りの観音。台座に名前が刻まれている。

銘「正月十八日/琉球国/越山建立/正五九月式日/文化十五年戊寅/町中安全/正観音/村裡吉祥」

※場所=520号線を東へ→唐仁公民館手前の路地を北折→仁王像の奥の墓地の一角

 

・唐仁(唐人)は肝属川北岸にある浦町。「高山名勝志」によれば、肝付氏没落後、大塚大明神社(現・大塚神社)が当地にきた唐人弥藤・鎮頭により造立されたという。

〔参考文献〕『串良郷土誌』串良町長佐枝潔、1973『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993

[写真撮影日2008/09/21

肝付町

肝付町立歴史民俗史料館

肝付野崎1983

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旧・高山町立歴史民俗史料館。9:00-16:30(休館日:月曜・祝日・年末年始)。539号道路沿い。民俗資料(一階)、歴史・考古資料(二階)。

◆鄭嘉訓の書(掛け軸):

鄭嘉訓(1767-1832年)は、久米村出身の士族で近世琉球最大の書家。

・ほかに琉球漆器など。

[写真撮影日2009/08/18

高山(こうやま)

道隆寺跡

肝付町本城

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臨済宗。志布志大慈寺の末寺。1246年の建立。廃仏毀釈により廃寺に。高山本城跡の向かい(付近の橋を渡って道なりに進むと入口がある)。【写真・上(入口付近)】

 

◆墓:墓碑銘「琉国太翁徒/恵察塔/文化元子七月廿六日」【写真・下】

(高さ約60p、上回り約80p、下回り約70pの石塔が、蓮華と角石の台座に乗る)

文化元年=1804。切り通しの道を上ってすぐの所にある。

・肝付町は2005年に高山町(こうやまちょう)と内之浦町が合併してできた。道隆寺跡は旧・高山町にある。高山は大隅半島の南東部に位置し、島津氏と対立抗争した戦国大名・肝付(きもつき)氏の根拠地。近世には志布志港と並ぶ交易港・波見浦を有した。

 

〔参考文献〕小野まさ子「道隆寺にある琉球僧の墓−薩琉交流史の一側面」『浦添市立図書館紀要』31992。『刻まれた歴史−沖縄の石碑と拓本−』沖縄県立博物館、1993

[写真撮影日2008/09/22

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内之浦

内之浦湊

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16世紀末頃の内之浦の湊にはたびたび唐船が入港した。1596年に内之浦に上陸した藤原惺窩は、当地の明人からルソンや琉球の情報を得ている。この時、内之浦で湊役人をつとめていたのが海商の竹下宗怡(頼堅)で、南九州の湊役人を歴任した人物であり、琉球にも妻子を置いていたという(『南航日記断簡』)。

〔参考文献〕深瀬公一郎「十六・十七世紀における琉球・南九州海域と海商」『史観』1572007

[写真撮影日2008/09/22

津口番所跡

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藩内に24箇所置かれた津口番所の中でも、志布志・脇元とともに大阪奉行所に番所の印鑑を届け、船の送状切手と符合すべき特別な番所であったとされる。

 

[写真撮影日2008/09/22

波見

波見浦

肝属川河口付近

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肝属川河口に設けられた湊。

1595年、海商・山下宗安が坊津からこの湊に移封され、「東目三津」での異船の監視役および国内の廻船衆の統制役についた。なお山下宗安は、島津氏直営船による琉球貿易に関与する海商で、1579年に島津氏により琉球に派遣されている(『旧記雑録』後編12)。

1596年、内之浦に上陸した後、藤原惺窩は波見に立ち寄り、山下宗安に迎えられた。この時、湊には唐船が入港しており、惺窩は船主・呉我洲に珍肴でもてなされた。船主の子は呂宋の大物商人であることから、呂宋との間を45日かけて航海してきたという。(『南航日記断簡』)

〔参考文献〕深瀬公一郎「十六・十七世紀における琉球・南九州海域と海商」『史観』1572007

[写真撮影日2008/09/22

根占

根占港

雄川の河口付近

(準備中)

雄川河口にあった湊。中世以来、南蛮船や琉球・中国の船が頻繁に出入りした。16世紀末、この港の小鷹丸船頭に島津義久から琉球渡海朱印状が、少なくとも5通発給されている。また雄川の北岸には唐人町の地名が残る。なお現在の根占港は河口南岸の川南、根占大橋南詰の南西に位置している。

 

◇琉球渡海朱印状1:1581天正9)年221日、島津義久が根占港小鷹丸船頭・妹尾新兵衛尉に発給(旧記雑録後編巻13[1-1257]

◇琉球渡海朱印状2:1582天正10)年915日、島津義久が根占港小鷹丸船頭・磯永対馬拯に発給(樺山資之家紀並日誌四)

◇琉球渡海朱印状3:1587(天正15)年225日、島津義久が根占港小鷹丸船頭・船頭橋本右京亮に発給(旧記雑録後編巻19[2-236])

◇琉球渡海朱印状4:1590(天正18926日、島津義久が根占港小鷹丸船頭・橋和泉拯に発給(町田氏正統系図16)

※朱印状は町田久倍に与えられた。

◇琉球渡海朱印状5:1590(天正18928日、島津義久が根占港小鷹丸船頭・橋和泉拯に発給(旧記雑録後編巻25[2-694])

 

・このほか、1583(万暦11年に琉球国王が根占の祢寝重張に書簡を送るなどした。

 

〔参考文献〕徳永和喜「琉球渡海朱印状の一考察」『西南地域史研究』31980徳永和喜「島津氏の印判に関する研究」『黎明館調査研究報告』41990。根占郷土誌復刻版編さん委員会編『根占郷土誌復刻改訂版』根占町長税所篤朗、1996

佐多

御崎神社

佐多岬(南大隅町根占辺田原)

(準備中)

708(和銅元)年に浜宮として創建され、1609(慶長14年、島津氏による琉球出兵の際に総大将・樺山久高が祈願を行って渡海したため、その帰国後、琉球鎮護のため現在の地点に再建された。このため社殿が南へ向けられていると伝える(『三国名勝図会』)

垂水

成就院跡

垂水市田神

(準備中)

如意山法智寺成就院。垂水市田神(旧・田神村)にあった大乗院(鹿児島市)の末寺。真言宗。1869(明治2)年に廃寺となり、寺跡には石仏・僧侶墓などが残る。

◇「如意山」の扁額:1692(元禄5)年、清国福州の明哲和尚(臨済宗33世)が記した「如意山」の扁額を掲げていた。明哲には、1691年の琉球の渡清使を通じて書を頼んだという。(『三国名勝図会』巻44

心翁寺跡

垂水市田神。垂水小学校の東方

(準備中)

宝厳山心翁寺。垂水市田神(旧・田神村)にあった楞厳寺(国分)の末寺。曹洞宗。廃仏毀釈によって廃寺となる。現在、跡地の一部に垂水島津家墓地があり、周辺の墓石群のなかには当寺の僧侶墓も数基残っている。

◇「宝厳山」の扁額:成就院同様、福州の明哲和尚の記した「宝厳山」の額を客殿に掲げていた。「康煕辛巳三月吉旦」と併記されていたという(『三国名勝図会』巻44)。康煕辛巳は1701年なので、辛未(1691年)の誤記か。

 

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