日本における琉球関係史跡の紹介 |
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日本各地(奄美諸島以外)における琉球関係の史跡の場所・概要・参考文献などを紹介します。
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調査・研究を進めながら、随時、書き足しています。
九州
●鹿児島[中部] 国分・隼人・霧島・加治木など |
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国分 |
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湊(の中福良) |
国分湊の中福良の集落にある墓地の中(端の方) |
龍翔院跡。龍翔院の詳細は不明。志布志の大慈寺の末院か。大慈寺の什器目録(昭和28年7月)には「即心院龍翔寺琉球末派等古文書数通」とある。 墓地の看板には次のようにある。 「覚書◇昔この所に龍朔院(龍翔院の誤記)というお寺があったので寺墓と云われるようになりました。◇この墓碑銘には「富寺前住大慈端堂恵癸要堂和尚/琉球国中山府那覇邑/文化八(1811)年三月十五日」とあり住職の墓です。お寺の建立の年次は不詳です。琉球からは要堂和尚の渡来以前にも、市内に幾人かの僧侶が渡来しているようです。(後略)」。 ◆墓:墓碑銘「文化八年三月十五日/富寺前住大慈端堂恵發西[癸要?]堂和尚/琉球國中山府那覇邑/龍翔院我翁従」〈如来座像・首なし〉 ※近世の「湊村」は敷根郷に属し、同郷の飛地であった。次項の小村と隣接している。 〔参考文献〕「湊」『鹿児島県の地名』平凡社。『国分郷土史』資料編、国分市、1997。『志布志町誌』上、志布志町役場、1972。 [写真撮影日2008/06/14] |
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広瀬(の小村) |
国分広瀬の小村の集落にある墓地の中(中の方の二箇所/両方とも「広瀬公民館保存指定」の白い杭が目印) |
日輪山東光院跡。東光院は臨済宗の寺院で、国分宮内の正興寺(建仁寺の末)の末寺である。開山は正興寺の14世・梅岩和尚である。堀切彦兵衛(事項参照)が琉球出兵を命ぜられた際に海上安全と島津軍の勝利を祈って願を掛け、成就したために東光院を再興したという(『国分諸古記』)。琉球人僧侶の墓が3基がある。 ◆墓1:墓碑銘「琉球僧墓/得海祖盛智蔵禅師/元禄八乙亥十月初二日」(*元禄8年=1695年)[写真上] ◆墓2:墓碑銘「前正興当院開山星淑大和尚/琉球禅隆建立之/元禄九丙子天拾月吉日」(*元禄9年=1696年)[写真下・真ん中]〈高さ50センチ〉 ◆墓3:墓碑銘「琉球僧墓/前正興当院十二世全岑/享保十一丙午年十一月廿七日」(*享保11年=1726年)[写真下・墓2の右隣]〈高さ50センチ〉 *次項の堀切彦兵衛(月浦宗潭居士)もここに葬られたと見られるが(『堀切氏系譜』)、現在、墓は確認できない。 ※近世の「小村」は国分郷に属した。 〔参考文献〕『国分郷土史』資料編、国分市、1997。 [写真撮影日2008/06/15] |
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国分資料館 |
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◆琉球渡海朱印状(1602年)[写真]。1602(慶長7)年に島津義久が大隈国冨隅之湊住吉丸の船頭(堀切)彦兵衛尉に発給した。当時、富隈と浜之市は義久の居所としてほとんど同義に使用されており、「富隈之湊」とは浜之市の湊であろうと考えられている(日本歴史地名大系ONLINE版、平凡社)。彦兵衛は1609(慶長14)年の琉球出兵の時にも船頭として参加している。 [本文] 「大隅國冨隈之湊住吉丸 船頭彦兵衛尉 琉球 慶長七年壬寅季秋七日 義久 下」 〔参考文献〕『国分郷土史』資料編、国分市、1997。 [写真撮影日2008/09/23] |
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唐人(唐仁)町 |
国分唐仁町 |
「国分諸古記」によると往古唐船が通航していた時、同所に唐人が居住していたことが町名の由来という。唐人の子孫は林氏を名乗った。同氏の祖・林鳳山は明の高官であったが国乱を避けて日本に渡り、初め浜之市に住み、のち島津義久に召出されて唐仁町に移ったという。寛延末年には惣人数469、うち名頭97、ただし元禄11年の竈数は73であった(同書)。唐仁町は国分地方の商業揺籃の地で、製菓業も江戸時代に同町で始まった。これは琉球との交易による砂糖の流入、明人系の製菓技術という二つの条件が重なって発達したものである(国分郷土誌)。 ◆正覚寺跡(国分市福島。唐仁町に隣接):林家の墓群がある[写真]。正覚寺は1658年に創建された浄土宗の寺院。 [写真撮影日2008/09/23] |
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敷根琉球人踊り[無形] |
国分敷根 |
近世の「敷根村」は敷根郷に属し、同郷の麓が置かれたため、麓(ふもと)村ともよばれた。 |
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隼人 |
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三光院跡(日秀神社) |
隼人町朝日19 |
もとは金峯山神照寺三光院(日秀創建)。大乗院の末寺。真言宗。開山は日秀。日秀は天文20(1551)年に島津貴久から命を受けて大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)を再建にあたり、再建成就(1560年)の後、この寺に居住した。明治2年の廃仏毀釈により現在の神社へ。 ・日秀上人:1503-1577年。真言宗の僧侶。上野あるいは加賀の人とされる。16世紀の初め頃に来琉し、金武観音堂を造建し、那覇に夷堂・地蔵堂を建立するなど、各地に事跡を残した。20年(一説では3年)ほど琉球に滞在し、その後、薩摩に渡った。 ◆日秀上人建立石柱塔:1572年のもの。[写真下] ・「(通堂の)左右に名仏三十体を安す。皆上人の作なり」(『三国名勝図会』巻40) ※近世の「朝日村」は日当山(ひなたやま)郷に属し、その飛地となっていた。 〔参考文献〕藤浪三千尋「旧三光院(隼人町)と日秀上人について」『鹿児島民俗』92、1988。 [写真撮影日2008/06/14および2008/09/23] |
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隼人歴史民俗資料館 |
隼人町内2496 |
三光院の遺物などが収蔵されている。 ◆光背:「乾隆辛卯/定/中山向」(下部は消失)。乾隆36(1771)年に中山(琉球)の士族・向(しょう)なにがし[向越中か]が奉納した半円形の光背。[写真] ・「客殿の後に石室あり。石室の上に霊堂を建つ。即ち(日秀の)入定所なり。正面に『定室』の二字、円相の額を掲く。左右に柱聯あり。聯句に曰、『一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏』、皆琉球国向越中の書なり」(『三国名勝図会』巻40) *向越中は現在までのところ、諸史料から該当者が見当たらない。 ◆日秀上人の遺品(硯・眼鏡など) 〔参考文献〕『隼人郷土誌』隼人町役場、1985年。 [写真撮影日2008/06/14] |
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鹿児島神宮(正八幡) |
隼人町内2496 |
別称:国分正八幡宮。8世紀初の創建と伝えられる。 ◇扁額1(記録のみ):「乾隆二十五年中秋穀旦/致遠堂/欽命福建正典試翰林院侍講学士涪陵周煌」 ・周煌は尚穆王の冊封副使で、1756年に来琉した。 ◇扁額2(記録のみ):「乾隆歳次甲寅/慈恩位育/琉球国若狭町村習小山領筑登之謹立」 ◇扁額3(記録のみ):「安永二年/赫霊/読谷山朝恒」 ・読谷山王子朝恒(1745-1811、名乗は1777年に朝憲に改めた)は首里王府の摂政。尚敬王の第二王子で、尚穆王の弟である。1773(安永二)年に敬姫の慶賀のため薩摩に赴いた。 ◇扁額4(記録のみ):「安国恵民/中山王世子尚哲」 ・「(扁額2への註)此額珍らしく琉球若狭町といふ所ありて、其町の寺子屋なるべし。筑登之とあれば侍格ならん。読谷山朝垣は、琉球国有名の王子、日本までも名高し。博学能書の王子なり。」(高木善助『薩陽往返記事』「薩隅日三州経歴之記事」P.687) ※今のところこれらの品の現存は確認されていないが、『隼人郷土誌』(隼人町役場、1985年。)には扁額3のモノクロ写真が掲載されている。 ◇扁額5:「蓬莱残雪/瑞図」[写真・下] ・『薩遊紀行』の著者(某熊本藩士、1801年に鹿児島を旅行)が、鹿児島神宮の西方約500mにある華林寺[けりんじ](鹿児島神宮の別当寺。真言宗。現在は霧島市田口に寺跡のみが残る)で見たという扁額か。同書には「徐葆光、瑞図(=張瑞図)、中山王ナトノ額連アリ、皆見事也」とある(『史料編集室紀要』31号)。張瑞図は明末の士大夫。「明末の四大家」の一人に数えられる。現在は鹿児島神宮の所蔵品で、『鹿児島神宮史』(P.40)によれば同扁額は「琉球王尚氏の奉納」と伝えられているという。 〔参考文献〕真栄平房昭「海を越えた扁額」『海が繋いだ薩摩―琉球』南さつま市坊津歴史資料センター輝津館、2009年。 [写真撮影日2008/06/14(神宮)、2010/01/09(扁額)] |
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富隈城跡 |
隼人町住吉浜之市(隼人駅から徒歩30分) |
島津義久(当時竜伯)が1595(文禄4)年に築城し、1604(慶長9)年頃、国分新城(舞鶴城)に移るまで約10年ほど在城した。城は東西約210m、南北約170mの方形で、一部に石垣が残り、南側正面に空堀がある。また東西隅の石垣前に、清正石と呼ばれる巨石があり、加藤清正が肥後から寄進した石であるとの伝承がある。 [写真撮影日2008/09/23] |
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浜之市港(富隈港) |
隼人町住吉浜之市(隼人駅から徒歩30分) |
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鹿児島湾に面した港。義久が富隈城に入城後、この港は同城の外港として発展した。その頃、浜之市港の修復が行われたと考えられており、以降、この港は琉球貿易をはじめとして近代まで重要な役割を果たした。 [写真撮影日2010/01/09] |
川尻琉球人踊り[無形] |
見次川尻地区 |
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島津義久が富隈城に居城していた文禄・慶長の頃に、往来する琉球人を見た川尻の人々が、その道中の様子を真似て芸能化したといわれる。 |
霧島 |
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霧島神宮 |
霧島市霧島町田口。 |
(準備中) |
別名:西御在所霧島権現。 ◇聯(記録のみ):〔(西霧島御宮の本殿の)角柱の聯〕「風機松声冷雨蒸萼気/徐葆光(唐人隷書)」 ・徐葆光は尚敬王の冊封副使で、1719年に来琉した。 ◇扁額1(記録のみ):「安永二年癸巳菊月穀旦/普照/球陽摂政尚和読谷山王子朝恒」か。 ◇扁額2(記録のみ):「安永二年癸巳菊月穀旦/至大無外/中山王世子尚哲」 ・「拝殿に掲ぐる絵馬額、普照〔赤朱塗板金字行書(※割注)〕球陽摂政尚和読谷山王子朝恒、「至大無外中山王世子尚哲、右額両面とも安永二年癸巳菊月穀旦とあり」(高木善助『薩陽往返記事』「薩隅日三州経歴之記事」P.686) |
加治木 |
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西一峰墓 |
大字木田東塩入の観音寺墓地内 |
(準備中) |
一峰は明国南京の人。1577年に渡来し島津義弘に仕えた。家久の琉球征伐の際には通訳として従軍したと言われている。 墓碑は次の通り:「寛永十五年 安甫道隠」「西一峰 正住 十二月念二日」 〔参考文献〕加治木郷土誌編さん委員会編『加治木郷土誌』加治木町長宇都宮明人、1966。 |
※本ページは、2008年度文部科学省特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」海域研究会巡検による研究成果の一部です。