日本における琉球関係史跡の紹介

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   日本各地(奄美諸島以外)における琉球関係の史跡の場所・概要・参考文献などを紹介します。

   調査・研究を進めながら、随時、書き足しています。

九州

●鹿児島[西南部(薩摩半島)] 山川・指宿・開聞・知覧・坊津・加世田など

山川・指宿

山川港

JR山川駅から徒歩20分程度

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Yamagawa_minato.JPG

天然の良港。中世から利用され、近世には薩摩藩の外港となった。1609年の琉球侵攻の際、島津軍はこの港から出船した。また琉球からの船は上り・下りともここで船改を受けた。

・「山川と云ふ薩摩一の大湊、琉球船此津へ入船の処也」(『日本九峰修行日記』P.11

 

[写真撮影日2007/10/15

正龍寺跡

山川町福元5780

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Yamagawa_Ryukyujinbaka.JPG

臨済宗。伊集院広済寺の末寺だった。その住職は山川港で琉球貿易の際の通訳を勤めたという。藤原惺窩も訪れた。明治2年の廃仏毀釈により廃寺となる。その時に散佚した墓石が一カ所に集められている。

 

◆墓:天明六年(1786)[写真]

右側面「本琉球那覇東村良氏嫡子」「大城仁屋」

正面「大清乾隆五十一年丙午」「日本天明六年」「欽叟□□□□門」「二月十五日□」

左側面「琉球国」「那覇東村大城仁屋」

 

〔参考文献〕深澤秋人「琉球・薩摩交流史の痕跡」『琉球と日本本土の遷移地域としてのトカラ列島の歴史的位置づけをめぐる総合的研究』(科研報告書、課題番号13410100、代表・高良倉吉)、琉球大学法文学部、2004。「山川町の文化財」第十二集、山川町教育委員会1998年。

[写真撮影日2007/10/15

山川薬草園跡

山川町役場の裏(旧・山川小学校敷地)

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Yamagawa_Yakusoen.JPG

1659に薩摩藩直園の薬草園として設置される。現在も残る竜眼(リュウガン)はその時栽培されたものといわれる。

 

 

〔参考文献〕「山川町の文化財」第十二集、山川町教育委員会、1998年。

[写真撮影日2007/10/15

徳光神社(からいも神社)

指宿市山川岡児ケ水の西方

(準備中)

1705年に琉球から甘藷(サツマイモ)を持ち帰った前田利右衛門を祀る。

また付近の堂ノ間墓地には前田利右衛門の墓石がある。

〔参考文献〕「山川町の文化財」第十二集、山川町教育委員会、1998年。

長勝院跡

指宿市山川岡児ケ水の西方

[場所未確認]

かつて坊津・一乗院の末寺・長勝院(宝蔵寺)があった。真言宗。1278(弘安元)年の創建で初め長松院と称したが、1609(慶長14)年、琉球渡海衆の指揮のために軍勢を山川に集めた際に、島津義弘がこの寺に滞在し、松の字を勝の字に改称したという(『三国名勝図会』巻21)。明治初年に廃寺となる。

熊野権現社跡

指宿市山川

[場所未確認]

祭神は紀州熊野三所権現。1609(慶長14)年、琉球征伐の際に島津家久が19代住持・頼真に祈願をさせる。琉球平定の後、1611年に本社を再興。以降、開聞宮(現枚聞神社)社家紀氏の祭祀にあずかる(『三国名勝図会』巻22)。また近くに、琉球出兵の際に家久が諸将を見送った場所に造られたという愛宕権現社もあったという(同書)。

利永琉球傘踊[無形]

 

 

琉球の「上り口説」が源流と考えられている。かつては福元・成川・大山にもこの踊りがあったという。

〔参考文献〕「山川町の文化財」第十二集、山川町教育委員会、1998。山川町編『山川町史・増補版』山川町長中村治男、2000年。

[その他の関連史跡]

・琉球人瀬碑:五人番4301

・琉球人文書碑:五人番4301。池城安規の礼状を記した碑。

・異国船番所跡:五人番4301

開聞(ひらきき)

開聞岳

 

(準備中)

薩摩半島南端にある標高924mの火山。薩摩富士の愛称がある。奄美・琉球−鹿児島の南海航路の目印であった。

枚聞神社

指宿郡開聞町十町1366

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Hirakikijinjya.JPG

708年の創建とされる。開聞岳を神体とし、航海安全の守り神として崇敬された。現在の本殿は1610年に再興されたもの。琉球人が献納した計七枚の扁額が宝物殿に展示されている。

・「夫より薩摩富士と号する開聞嶽へ詣て納経す。明神宮所(枚聞神社)は山麓平原の地に勧請あり。折節琉球人帰船に付無恙の祈念に例時神楽を奏する由。右の日参り合せ甚だ仕合せ也。琉球人は衣冠正しく、上中下の官を糾し礼拝丁寧の事也」(『日本九峰修行日記』P.11

19世紀前半に枚聞神社を訪れた商人・高木善助は琉球人奉納の「徳光普照・普済群生・妙霊普済・生而神霊・徳徧海天」の五枚の額を見た旨を記している(『薩陽往返記事』「薩隅日三州経歴之記事」P.677)。

◆扁額1:「安永二年癸巳仲夏穀旦/生而神霊/球陽摂政読谷山王子朝恒謹立」(1773年)

◆扁額2:「天明三年癸卯仲夏穀旦/徳徧海天/球陽尚周義村王子朝宜謹立」(1783年)

◆扁額3:「天明三年癸卯仲夏穀旦/妙霊普済/球陽尚図浦添王子朝央」(1783年)

◆扁額4:「寛政二年庚戌仲夏穀旦/徳光普照/球陽尚格大宜味往時朝規謹立」(1790年)

◆扁額5:「寛政三年辛亥四月穀旦/普済群生/宜野湾王子朝陽」(1791年)

◆扁額6:「寛政七年歳次乙卯仲夏穀旦/鐘霊/球陽尚周義村王子朝宜謹立」(1795年)

◆扁額7:「享和三年癸亥五月吉旦/徳配天/毛氏崇原親方安執謹立」(1803年)

 

〔参考文献〕沖縄県教育庁文化課編『扁額・聯等遺品調査報告書(沖縄県文化財調査報告書44)』沖縄県教育委員会、1983年。開聞町郷土誌編纂委員会編『開聞町郷土誌・改訂版』開聞町、1994年。

[写真撮影日2007/10/15

知覧

ミュージアム知覧

 

(準備中)

中山王書状(島津杢宛):琉球の中山王が知覧領主島津久峰へ、久峰の若年寄就任祝とともに送った書状。

※他にも王子・按司からの書状、漆器の琉球塗・琉球の焼物などが収蔵されている。

〔参考URLミュージアム知覧

坊津

坊津歴史資料センター輝津館

南さつま市坊津町坊9424-1

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Bonotsu_Kishinkan.JPG

◆琉球渡海朱印状二通

@坊津権現丸(船頭・山崎新七郎)に発給(1582年)A坊津天神丸(船頭・鳥原掃部助)に発給1584年)

◆琉球進貢録

◆波之上護国寺符牒[琉球国真言宗符牒](貞享5=1688年):

鹿児島の真言宗寺院・大乗院から、その末寺である琉球の「波の上護国寺」と、その末寺の「臨海寺・神宮寺・神徳寺・観音寺・万寿寺・神応寺・聖現寺」に授けられたもの。廃仏毀釈にともない大乗院に戻された後、いったん沖縄県立博物館へ寄託されたが、所蔵者が寄託を取りやめ鹿児島に戻したため、戦禍を免れた。その全文は、『三国名勝図会』巻4にも収録されている。

◆鄭嘉訓の書(掛軸):「海不揚波」(海、波を揚げず)

 聖君があって天下がよく治まることを喩えた古代中国の成句だが、海が穏やかで安全に航海できるという文字通りの意味も込められているものと考えられる。海運を通じて琉球との間に盛んな船の出入りがあった久志に伝来したもの。鄭嘉訓(1767-1832年)は、久米村出身の士族で近世琉球最大の書家。

〔参考文献〕『坊津町の文化財』鹿児島県川辺郡坊津町教育委員会、1996年。『坊津−さつま海道』坊津歴史資料センター輝津館、2005年。

[写真撮影日2009/08/20

唐人墓

南さつま市坊津町泊

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Bonotsu_Tojinbaka.JPG

松下家墓地の入口に所在。高さ約65センチ、前後の長さは約180センチ。墓前面中央に墓碑があり、文字は風化が進んでいるものの、最末尾の「墓」の文字は読み取れる。墳丘はセメント状の部材で馬蹄形に盛られている。具体的な埋葬者に関する史料は今のところ確認されていない。福建省福州の琉球人墓に類似している。

〔参考文献〕坊津町郷土誌編纂委員会編『坊津町郷土誌』上、坊津町、1969年。橋口亘「鹿児島県坊津町泊の唐人墓」『南日本文化財研究』12005

[写真撮影日2010/01/10

博多浦

南さつま市坊津町久志

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Bonotsu_Hakataura.jpg

久志村にあった貿易港。浦の西側に入り込んだ入江=江籠潭(えごんたん)[写真・上]が船溜・造船場となっていた。交易場跡や市杵島(いつくしま)神社のほか、西側に唐人町跡があり、唐人墓(後世に合葬されたもの)[写真・下]がある。

[写真撮影日2005/11/27

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Bonotsu_Hakataura2.jpg

今村浜

南さつま市坊津町久志

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Bonotsu_Imamurahama.JPG

久志の浜(浦)。網を中心とした漁業で栄え、また中村家と重家が廻船問屋制の中心的存在として繁栄した。中村家は、慶長年間から琉球・南方貿易に従事したと伝えられ、三代宇兵衛が那覇の女性と交際して生まれた子供を系祖として琉球士族・宇氏が成立した(※宇兵衛の玄孫が、琉球の浄土真宗法難事件で有名な仲尾次政隆である)。重家は、文政年間(1818-1829年)に士分を得、その繁栄は明治期まで続いた。1828年の治兵衛の肖像画が坊津歴史資料センター輝津館に所蔵されている。同館にはまた、1983に重家の屋敷脇の小川から出土した関船(江戸時代の軍船)の舵の一部も保管・展示されている。

[写真撮影日2009/08/20

加世田

加世田郷土資料館

南さつま市加世田川畑2650-1

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Kaseda_Museum.JPG

島津忠良(日新)に関連する遺品・遺物(古文書・忠良着用の袈裟・食器・馬具など)が展示されている。

 

◆琉球漆器の入子碗[写真]:外箱に「日新公御鉢子入、從前代帳外ニ而大切次渡來候」、「現住天來代」、「元文二(1737)丁巳霜月十三日」、「四番」と墨書。日新公(島津忠良)が入子碗を入手した年代を20歳以降とすると、151060年代(古琉球期後期のもの)と推定できる。

〔参考文献〕安里進「仙台と薩摩に伝世した琉球漆器の祭具」『漆工史』292006年。

△扁額:かつて日新寺に掛かっていた「龍護山」の扁額の「龍」・「山」の字(「護」は所在不明)。琉球の程時宜なる人物の筆と伝えられるが、琉球の程氏には該当人物が見当たらない。なお鹿児島神宮の拝殿の左右にあった聯が「霊山聳翠鐘千春不易之神秀/程時宣」「宝殿流丹放万世不彊之徳輝/赤城」であったと言う(高木善助『薩陽往返記事』「薩隅日三州経歴」P.687)。

<参考>18世紀後半から19紀初まで長崎に来航を繰り返した唐人商人に程赤城(赤城は字。名は霞生、号は柏塘)という人物がおり、多くの字跡を残している(松浦章「乾隆時代の長崎来航中国商人―汪縄武・汪竹里・程赤城を中心に―」同『江戸時代唐船による日中文化交流』思文閣出版2007)。

[写真撮影日2005/11/16

日新寺跡(竹田神社)

南さつま市加世田武田17932

https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Satsuma2_Kaseda_Jishinji.JPG

曹洞宗皇徳寺の末寺1564年に島津忠良(日新公)が旧・保泉寺を再興して菩提寺とした。忠良の死後、寺の名は日新寺に改められた。廃仏毀釈により廃寺となり、1873年に竹田神社となった。

 

◇扁額(記録のみ):「寛政十二年庚申 孟夏穀旦/克昌厥後/中山王尚温謹立」

・「琉球中山王の筆額あり。文字『克昌厥後』、横額なり」とある。高木善助『薩陽往返記事』「薩隅日三州経歴」P.673

〔参考資料〕上東三郎編『加世田名勝志』加世田史談会、2005年、P.22

[写真撮影日2007/10/14

 

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