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 久米系

久米系士族とは、久米村(現在の那覇市久米)―久米村は唐栄とも呼ばれる―に居付(戸籍)を持つ士族を指す。彼らは俗に、明初に渡来した「閩人三十六姓」の末裔と言われ、中国(明清)との外交業務に専従する職能集団であった。

 

 閩人(福建人)三十六姓の渡来については、洪武年間に明帝より下賜された、或いは洪武・永楽年間に分賜されたなどの諸説があるが、商売その他の理由で来琉した中国人が自然発生的に港市・那覇に唐人集落を形成したというのが実際のところのようである。彼らは、外交文書の作成、使者・通訳、航海術指南などの面において、明への進貢を軸とした琉球の対外貿易の中で活躍した。しかし15世紀後半ごろから海外貿易の不振に伴って、久米村も衰微・荒廃し、その人口も激減した1606年、尚寧王の冊封のため琉球を訪れた夏子陽は、「僅かに蔡・鄭・林・程・梁・金の六家があるのみである」と記している。こうしたことから進貢を実施する要役すらも確保が難しくなり、16世紀末から17世紀初にかけて、新たな渡来人―阮明・王立思・阮国・毛国鼎(全て福建省ショウ[サンズイ+章]州府の人)―が久米村に編入された

 

 1609年、島津侵攻を経て、琉球は中国との君臣関係を保ったまま、幕藩制の支配領域に包摂された。その後、17世紀中庸頃から、対中国(明清)貿易の振興策の一環として、王府は久米村の強化を図り、@職能集団としての身分保証、A人材の確保(漂着中国人・中国語や航海術に通じている琉球人―「日本人」の子孫も含まれていた―を久米村へ編入)、B経済的な恩恵の下賜などを行ったため、久米村は往時の繁栄を取り戻した。このように近世の久米村は、それ以前の自然発生的な集落とは異なり、王府の施策によって政治的に創出された地域であると言えよう。

 

 久米村の家譜(『氏集』十七番代)は、首里・那覇・泊系と比べて相違点が多く、中国の宗譜の影響をより強く受けている。その特徴は以下の通りである。

@家譜の「紀録」以降の記述が、首里・那覇・泊系のように琉球王代ごとに官爵・庸の別なく編年体で記すのではなく、官爵・庸・采地・俸禄・寵栄・婚家などの各項目を立てた上で、項目内での編年体記載となっていること。(※このためか、多くの久米系家譜が序文に次いで「歴代帝王紀年考」を掲載している。)

A首里・那覇・泊系と異なり、いわゆる「名乗」(姓ごとに名乗の頭文字を特定すること)がなく、全て「諱」であること。

B首里・那覇・泊系と比べて分冊が少ないこと。

 

なお氏集には135冊が掲載され、その内、写本も含めて現在存在が確認されているのは約70冊である。他系の家譜に比べ、残存率は非常に高いと言えるだろう。

〈参考文献〉

池宮正治・小渡清孝・田名真之編『久米村―歴史と人物―』ひるぎ社、1993年。

沖縄県教育庁文化課『(沖縄県文化財調査報告書第90集)沖縄の家譜』沖縄県教育委員会、1989年。

田名真之「近世久米村の成立と展開」『新琉球史―近世編(上)―』琉球新報社、1989年。

田名真之「久米村家譜と久米村」『沖縄近世史の諸相』ひるぎ社、1992年。

田名真之「琉球家譜の成立と門中」『歴史学研究』7432000年。

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