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[管理人より]2007年から世界遺産の今帰仁グスクの調査研究整備委員を務めさせていただいております関係で、今帰仁関係の史料の整理・分析を少しずつ始めました。まずは歴代の今帰仁監守を輩出した向氏具志川家の家譜をじっくり読み込み、近世における今帰仁グスクの意味などを考えて行きたいと思っております。

 

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向氏具志川家の人々

【右の序文を記した蔡温(16821761)】

http://www.geocities.jp/ryukyu_history/nakijin/images/saion.JPG

向氏家譜序

【原文】

予嘗居唐榮之時、瑞菴向公、屡訪予於茅廬、相尚以道。壬辰之歳、予奉王命、移居首里、竟結肝胆之交、毎有暇日、則治亂盛衰之理、時勢經權之宜、無時不談、無談不快。瑞菴公之言曰、忠輔社稷、孝和族氏、能流芳名于百世者、則臣子性分之職非不能也。然人非生而知之者、必求賢師友所導、然後可得盡其職矣。方今世俗之人、或養父母口體為孝、而族氏禮情之道、不之知焉。或掌官職一事為忠、而社稷盛衰之機、不之計焉。此無賢師友所導、而孤陋寡聞之所致也。昔、范文正公、有曰先天下之憂而憂、後天下之樂而樂。斯非能計社稷盛衰之機者乎。又曰、吾宗族甚衆、祖宗視之均是子孫、吾安得不恤也。斯非能知族氏禮情之道者乎。如范公者誠可謂臣子模範矣。然范公不求之外、□盡其性分之職而已矣。范公豈欺我哉。蓋瑞菴公、其志如是。予以為斯人、必留芳名于百世。詎想甲辰秋七月、一旦臥病幽明永隔吁命矣。夫斯人也。予惟仰天一嘆而已。荏苒間公子宣謨、能繼先人之志、亦從予遊、孜孜弗懈、深為之感。一日手携家譜一巻、乞序于予。予将奚言。謹述令尊瑞菴公之言、為之序云。

 雍正八年歳次庚戌、仲秋吉旦、友生蔡温文若氏謹譔

【訳文】

私がかつて久米村に住んでいた時、瑞菴向公(九世・向鳳彩のこと。瑞菴は鳳彩の号である)はしばしば拙宅を訪ねて交際した。康煕五十一(1712)年に、私が国王の命によって首里に移住したので、とうとう肝胆(真心)の交わりを結び、公務の無い日には、治乱盛衰のことわりや時勢経権のよろしきを、時を忘れて語り合った。その時、瑞菴公は次のように話していた。

「国家に忠誠を尽くし一族を大切にして永遠にその名を残せば、それは臣・子としての責務を果たすということになるのだろう。だが人は生まれながらにしてこれを知っているわけではないので、必ず賢い師友(師として敬い仰ぐ程の友人)に教え導いてもらい、それから臣・子の役割に尽力すべきである。今、世俗の人の中には、父母を養うことだけが孝行であると考え、一族の礼情の道を知らない者がいる。また官職を務めることだけが忠義であると考え、国家盛衰の機を計らない者もいる。これは賢い師友の導きが無く、見聞が狭小なためである。昔、范文正公(北宋の忠臣・范仲淹)は『世の人に先んじて天下を憂え、遅れて楽しむ』と言った。このように心掛ければ必ず国家盛衰の機を計ることができよう。また范公は『我が一族は非常に多いが、祖宗から見ればみな均しくその子孫なのだから、どうして大切にせずにはおられようか』とも述べた。このようにすればよく一族の礼情の道を知ることができる。范公は誠に臣・子の模範と言うべきである。范公は臣・子の模範たるべき道を世俗の名利に求めるのではなく、自らの性分の職を尽くすことの中に求めたのである。范公がどうして私を欺くだろうか」。

思うに瑞菴公の志はまさにこのようなものであり、永代に名を留めるべき立派な方であった。しかし図らずも雍正二年七月(17249月)、瑞菴公は病に伏せると、そのまま亡くなり、私はただ天を仰いで嘆くのみであった。

月日が過ぎゆく中で、その子の宣謨はよく父親の志を継ぎ、私に従って交際することたゆまず怠らずであったため、私は深い感銘を覚えた。ある日、宣謨が家譜一巻を携えてやって来て、私に序文の執筆を頼んだ。まさに何を述べようか。謹んで御尊父・瑞菴公の言を記し、序文としようではないか。

雍正八年八月一日(1730912日)

朋友の蔡温が謹んで記す。

 

 

【一世】1 尚韶威(しょうい)

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今帰仁王子。童名・真武体金。名乗・朝典。号・宗仁。尚真王の第三子。母・室は不詳。二男一女をもうける。生年月日不詳。嘉靖年間(15221566年)に没す。向氏具志川家の元祖。

▼子女

・長男介昭:今帰仁間切具志川村の具志川親雲上の娘・真呉勢(俗称は中之御殿大按司志郎礼)を娶る。妻の号・賢才。

・次男介明:本部間切天底村の天底親雲上の娘・思加那を娶る。妻の号・花岳

・長女世寄君按司:和氏平良親方景平に嫁ぐ。

▼墓

首里の西之玉御殿。

◇尚真王の命を受け今帰仁間切の監守・総地頭に◇

弘治年間(14881505年)、韶威は父親の尚真王(第二尚氏:在位1476-1526)の命を受けて山北を監守し、今帰仁王子と称した[註1]。また今帰仁間切総地頭職に任ぜられる。写真は今帰仁グスクの志慶真門郭(しじまじょうかく)。

[註1]玉御殿の碑文(1501年)に「御一人ミやきせんのあんしまもないかね(今帰仁按司真武体金)」の記述があるため、少なくともそれ以前には今帰仁に派遣されていたと考えられる。

◇今帰仁監守の来歴◇

かつて尚巴志王(第一尚氏:在位1421-1439)は三山(山北・山南・中山)を平定して統一を成し遂げたが、山北城(今帰仁グスク)は首里から遠く離れ、土地は険しく人民も壮健である。そこで山北が再び険しさをたのんで変乱を起こすことを恐れ、次男・尚忠を派遣して監守させ、変乱を絶やすことを定決めた[註2]。尚徳王(在位1460-1469)の代に(※正確には尚徳の死後)、第一尚氏が滅ぼされ祭祀も廃絶した。このため監守・貴族たちはみな遁世して隠れた。その後、尚円王(第二尚氏の始祖:在位1469-1476)が、尚巴志王の制度を踏襲して、大臣を派遣し山北を監守させて「昇平の盛」を実現した。その息子の尚真王(在位1476-1526)の代に、第三子の尚韶威を派遣して山北を監守させ、かつその子孫が爵位を継承して監守の職に就くことが定められた。尚韶威は、毎年元旦・十五日(元望)・冬至の大朝の時には必ず首里に赴き国王に謁見したが[註3]、その他の小朝はみな免除された(「朝」=朝観の意、国王に拝謁すること)。以後、山北に住んで監守となった子孫はみなこれにならった。

[註2]尚巴志の死後、1439年に尚忠は王位を継ぐ。監守には、旧制に従って子弟を封じた(『球陽』巻291番)。なお1450年頃の琉球が『海東諸国紀』「琉球国之図」に描かれている。

※なお運天の百按司墓には「弘治十三(1500)年九月某日」の銘と、「伊差川の按司」の記がある。

[註3]大朝とは朝賀の儀式のこと。俗に朝之御美拝(チョウヌウニフェー)と言う。王府の儀式の中では最大規模のもので、国王が前之御庭(メーヌウナ)に出御し、百官を率いて、北殿前に設けられた「子之方(ニーヌファ)の御座敷」で紫禁城を遙拝し、皇帝の禧を祝した(『球陽』巻10730番によれば1719年まではその年の歳徳の方位に遙拝していた)。

◇尚真王からの拝領品◇

弘治年間、尚韶威は山北に派遣される際に、尚真王から「脇指」2振(銘は「備州長光」と「相州秋広」)[註4]、「鎧通」1本(銘は「行平」)、「黄金保伊波武の御盃と御盃台」各1個、「金織緞紳」1條(これは現存して家宝となっているが他は兵火により焼失した)を特別に下賜された。さらに「唄双紙」(おもろそうし)1冊を下賜され、季節ごとに祭礼を行なった。山北は各季節に神が出現するため、その祭礼が最も重要である。そこで尚韶威が監守となってからは、監守は代々家族を率いてこの祭礼を行った。また王府は唄勢頭3〜4人を派遣し、現地の唄勢頭と共に祭礼を行わせた。この時、阿応理屋恵按司・世寄君按司・宇志掛按司・呉我阿武加那志などの女官がいて[註5]、この儀礼を執り行った。崇禎年間に、兵警(1609年、島津侵攻)に遭ってからは、この祭礼は廃れた。ただ阿応理屋恵按司の職は今もなお存在し季節ごとに祭礼を行っている[註6]。また康煕481709)年、首里城が焼け落ちて唄双紙(おもろそうし)を焼失したため、九世の鳳彩が具志川家に伝存していた双紙を呈覽して公補の用に備えた。

[註4]長光は、備前国(岡山県)の長船派の創始者として知られる刀工・光忠の子。秋広は、相州(相模国)伝と呼ばれる伝法に属する南北朝期の刀工。いずれも著名な刀工である。

[註5]阿応理屋恵(あおりやゑ)按司・世寄君(よよせきみ)按司・宇志掛(うしかけ)按司は、高級神女である三十三君に数えられている。韶威の長女は世寄君按司となっている。

[註6]阿応理屋恵には、他に恵良部阿応理屋恵と今帰仁阿応理屋恵があり、18世紀以降は今帰仁阿応理屋恵のみが継承された。今帰仁阿応理屋恵は北山監守の一族の世襲職で、国頭地域の最高位の神女として今帰仁城内の祭祀をつかさどった。1731年に一度この職は廃止されたが、1768年に復活した。現在その勾玉が今帰仁村歴史文化センターに展示されている。→詳細はこちら

 

【二世】2 向介昭(かいしょう)

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今帰仁按司。童名・思二郎金。名乗・朝殊。号・宗義。一世韶威の長男。生年不詳。隆慶年間(15671572年)に卒す。妻・真呉勢。四男一女をもうける。

▼子女

・長男和賢:今帰仁間切伊野波村の伊野波親雲上の娘・真牛金を娶る。妻の号・心月。

・三男和文:田氏■1親方忠の娘・思乙金を娶る。

・四男和禮:今帰仁間切平識村の平識親雲上の娘・思加那を娶る。

・長女宇志掛(うしかけ)按司:嘉靖381559)年〜崇禎151642)年720日。童名・松比樽。孟氏今帰仁方宗春に嫁ぐ。号・慈岩。

■1=双+牛

▼墓

運天の大北(ウーニシ)墓[写真]。銘書「宗仁公嫡子 御一人若□□カリタル金」。

◇父を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

嘉靖年間(15221566年)、父・韶威を継ぎ、今帰仁間切総地頭職に就任。

 

【三世】3  向和賢(わけん)

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今帰仁按司。童名・真武体。名乗・朝敦。号・宗真。二世介昭の長男。嘉靖361557)年〜万暦191591)年1219日。享年35歳。妻・真牛金。二男をもうける。

▼子女

長男克順:四世の記事を参照。

次男克祉:向氏安次嶺按司朝孫の娘・真鍋樽を娶る。

▼墓

今泊の津屋口(チェーグチ)墓[写真]。墓室の口が無いことから、別名アカン墓。墓前に「墳墓記」(康煕171687年建立)がある。

◇父を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

隆慶年間(15671572年)、父・介昭を継ぎ、今帰仁間切総地頭職に就任。

 

【四世】4  向克順(かつじゅん)

今帰仁按司。童名・真満刈。名乗・朝效。号・宗心。三世和賢の長男。万暦81580)年〜241596)年28日。享年17歳。

▼墓

運天の大北(ウーニシ)墓。銘書「宗仁公四世今帰仁按司ママカル金」。

◇父を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

1591年、父・和賢を継ぎ、今帰仁間切総地頭職に就任。

 

【五世】5 向克祉(かつし)

今帰仁按司。童名・真市金。名乗・朝容。号・宗清。兄の克順に嗣子なきため五世として家を継ぐ(実際は四代目)。三世和賢の次男。万暦101582)年〜371609)年328日[註1]。享年28歳。妻・向氏真鍋樽。二男一女をもうける。

[註1]死亡日は島津侵攻により今帰仁が焼き討ちされた翌日である。

▼子女

・長男縄祖:向氏本部按司朝安の娘・宇志掛按司(童名・真比樽)を娶る。

・次男縄武:中宗根親雲上の娘・阿応理屋恵按司(童名・思乙金)を娶る。

・長女真呉勢:万暦311603)年〜康煕71668)年19日。孟氏伊野波親雲上宗常に嫁ぐ。号・桂林。

▼墓

運天の大北(ウーニシ)墓。

◇兄を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

1596年、兄・克順の跡目として、今帰仁間切総地頭職に就任。

 

【六世】6 向縄祖(じょうそ)

今帰仁按司。童名・鶴松金。名乗・朝経。号・瑞峯。五世克祉の長男。万暦291601)年〜順治151658)年629日。享年58歳。妻・向氏宇志掛按司。二男一女をもうける。

▼子女

・長男従憲:孟氏伊波野親雲上宗当の娘・思武太金を娶る。

・次男従宣:孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の娘・阿応理屋江按司(童名思武太金)を娶る。

・長女宇志掛按司:童名・真鍋樽。天啓31623)年〜康煕141675)年916日。昌氏天久親雲上政書に嫁ぐ。号・心覚。

▼墓

運天の大北(ウーニシ)墓。銘書「宗仁公六世曾孫今帰仁按司童名松鶴金」。また縄祖のものと思われる位牌が今泊の今帰仁阿応理屋恵御殿(オーレーウドゥン)に現存している。

◇父を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

1609年、父・克祉を継ぎ、今帰仁間切総地頭職に就任し、知行100石を賜う。16311225日、知行50石を加増され、合計150石となる(後に知行減少の時80石となる)。1637年、伊野波在番に任じられる。1646425日、知行減少の時56石となる。165421日、致仕(辞職)する。

※縄祖の代中に監守が城内から城下に移住した。

 

【七世】7 向従憲(じゅうけん)

今帰仁按司。童名・思五良。名乗・朝幸。号・北源。六世縄祖の長男。天啓71627)年48日〜康煕261687)年313日。享年61歳。妻は孟氏思武太金。三男四女をもうける。

▼子女

・長男洪徳:章氏宜湾親方正信の娘・司雲上按司(童名思乙金)を娶る。

・次男洪秀:向氏東風平按司朝台の娘・乙益金を娶る。

・三男洪泰:毛氏仲座親雲上盛与の娘・真牛金を娶る。

長女思玉金:順治81651)年73日〜康煕461707)年1230日。向氏勝連按司朝旧に嫁ぐ。

・次女真牛金:康煕41665)年920〜康煕521713)年1125日。東氏知念里之子親雲上政常に嫁ぐ。

・三女真加戸樽:康煕81669)年1027日〜?。孟氏佐邊里之子宗政に嫁ぐ。

・四女真呉勢:康煕101671)年51日〜?。向氏比嘉里之子朝定に嫁ぐ。

▼墓

運天の大北(ウーニシ)墓。銘書「宗仁公七世今帰仁按司」。

◇父を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

164311月、欹髻(カタカシラ)を結う。1645121日、今帰仁間切与那嶺の名を賜う165421日、父・縄祖を継ぎ、今帰仁間切総地頭職に任じられる。また追襲のため知行56石を賜る(後に知行減少の時、40石となる)。同年同日、伊野波在番となる。

◇今帰仁から首里へ移住◇

1665113日、王府に上奏文を提出し首里への回帰を乞い、許されて首里赤平村に居住する。

◇今帰仁間切を二分し本部間切が成立◇

16661112、今帰仁間切を二分し、一方を本部間切とする。同年、運天在番に転任する。1675818日、致仕(辞職)する。

 

【八世】8 向洪徳(こうとく)

今帰仁按司。童名・鶴松金。名乗・朝又。号・慈海。従憲の長男。順治91652)年1027日〜康煕301691)年730日。享年40歳。妻・章氏司雲上按司(雍正13173584日卒。享年76歳)。一男をもうける。

子女

・長男鳳彩:向氏喜屋武按司朝里の娘・思武太金を娶る。

▼墓

西原間切末吉村の墓。

◇父を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

1668213日、欹髻を結う。1671223日、今帰仁間切松田の名を賜う。1675818日、父・従憲を継ぎ、今帰仁間切総地頭職に任じられる。追襲のため知行40石を賜う。167591日、初めて王府に出仕する。1680813日、鳥小堀矼普請総奉行となる。この時の奉行は葉氏喜納親雲上兼敬であった。168419日、西之平等の夜廻主取となる。

◇洪徳の宅地は国王の「吉」◇

1691年、洪徳が首里の汀志良次村に住んでいたところ、王世孫の尚益が、新たに殿宅を造営する際に洪徳の宅地を「吉」として所望し、公府より赤田村内田の地に屋敷を建てて洪徳の家宅として下賜した。また居住費として米20石を賜った。

 

【九世】9 向鳳彩(ほうさい)

今帰仁按司。童名・思五郎。名乗・朝季。号・瑞菴。洪徳の長男。康煕131674)年64日〜雍正21724)年727日。享年51歳。妻・向氏思武太金(後の司雲上按司。康煕191680410日〜乾隆131748416日[病没]、享年69歳)。しかし子供を授からず、このため大里間切与那原村の上原筑登之親雲上の娘・真鍋樽(康煕131674年〜乾隆161751722日、死寿78歳、号・本心)を側室として一男(宣謨)をもうける。また今帰仁間切親泊村親川爾也の娘・真蒲戸との間に一女をもうける。

子女

・長男宣謨:向氏小波津按司朝恒の娘・真松金を娶る。

・娘真増金:康煕281689)年919日〜?。孟氏仲宗根筑登之親雲上幸矩に嫁ぐ。

▼墓

西原間切末吉村の墓。

◇父を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

1690219日、欹髻を結い、今帰仁間切運天の名を賜う。この時、国王から、祝賀のため女官・大庫理阿武志良礼が派遣され御花・御玉貫を下賜される。また王妃・王世子(世継ぎ)からも御花・御玉貫を下賜される。1691年閏74日、父・洪徳を継ぎ、今帰仁間切総地頭職に任じられ、追襲のため知行40石を賜る。このため920日に、国王から祝賀のため女官・大庫理阿武志良礼が派遣され、御花・御玉貫(ウタマスキ)[註1]を下賜される。また王妃・王世子(世継ぎ)からも御花・御玉貫を下賜される。169923日、西平等の大与頭(おおくみがしら)に就任する。

[註1]玉貫瓶子のこと。錫瓶の表面に彩色の南京玉を貫いたものを張りつけ家紋を入れた華麗な瓶(高さは約30センチ)。祭事・祝事の際に用いられた。国王からは原則的に「1双(一対)」が下賜された。→浦添市美術館のサイトで「緑地巴紋御玉貫」(ページの下の方)の画像が見られる。

◇疲弊した今帰仁間切の振興に当たる◇

1701年、今帰仁間切は先年の旱魃(かんばつ)以来、人民が疲弊し年貢未納者が増えていた。鳳彩は、もう一人の総地頭[註2の向氏今帰仁親雲上朝哲と共にこのことを議して王府に上申した。王府は、今回は未納の年貢を全て免除するが、以後はよく百姓を監督して年貢を未納させないようにせよと、鳳彩に諭した。鳳彩らは再び協議し、今帰仁は首里から遠く離れているので、自ら現地に赴いて監督したいと王府に申請し許可された。またそのために運天在番を兼務させてほしいと申請し、これも許可された。こうして鳳彩は自ら今帰仁に赴き農業の振興に当たり、また在番職を兼務した。1704年になり、百姓もやや回復してきたので、鳳彩は首里に戻って復命し、在番職も返還した。

[註2]琉球の間切には按司地頭と親方地頭の二名の地頭が任命されていた。

◇薩摩への使者に選ばれるも派遣自体が中止に◇

170355日、王妃(章氏聞得大君加那志)が逝去した後、王世子・尚純と王世孫・尚益から、遺品として桔黄花緞紳1條と錦手茶碗1個を下賜された。王妃は鳳彩の母親の姉であり、鳳彩にとっては伯母に当たる人物であった。1705617日、西平等の大与頭に就任し、翌年9月に辞任する。1705911日、薩摩の亀姫郡主(三代藩主綱貴の長女、1690-1705年、近衛家久室)の嫁礼を慶賀するため、王命を受けて使者となったが、本年1117日に亀姫郡主の病没の報が届いたため派遣は中止となった。170684日、旧規奉行に就任。17109月に重修国殿惣奉行に任じられたため、旧規奉行は辞職する。

◇尚益の即位申請のため薩摩へ◇

1709713日、尚貞王が崩御したため、薩摩へ世継ぎ(尚益)の王位継承を申請する使者に任じられる(この時の附役は東氏志喜屋親雲上政常、与力は向氏安次嶺里之子親雲上朝中であった)。同年720日に乗船した。86日に、王世孫が内院(御内原)から近習の浦氏新城親雲上常春を派遣して、大墨1塊・楊州香合2個(内に香餅を装す)、巣焼御盃10個(1匣)、晒永春済1端、宮古島細上布1端、漬戸川1壺、焼酒1壺を特賜した。87日に那覇を出港して、11日に大島に到着。18日に仲島に至り、そこから口永良部を経て、29日に屋久島、911日に山川に到着。検査を済ませて即日出船し、12日に鹿児島に到着。14日に仮屋守の宮里八兵衛と、地頭新納市正・取次役堀甚左衛門のところに行き、次の口上を行う。

口上

「中城王子(世継ぎの王子)は、国司(=国王)尚貞が崩御したため、このたび即位をお許しくださるようお願い申し上げます。使者を派遣して上申させますので、宜しくお取り計らい下さいますようお願い申し上げます」と申し上げるよう命ぜられて参りました。

九月十四日               使者 今帰仁按司

即位継承の上申が終了した。921日に、登城して藩主(島津吉貴)に謁見した(前例により国書と献上物は差し上げなかった)。その時、鳳彩が個人的に藩主に、寿帯香・練蕉布・青貝硯屏・焼酒・毛氈を、又三良公(吉貴の長男=継豊[又三郎])に、寿帯香・毛氈・焼酒・青貝料紙箱(内に硯匣を装す)・練蕉布を献上した。25日に召されて登城し、対面所で、藩主から家老・島津帯刀を通じて、次の言葉を賜る。

今帰仁按司への通達

尚貞王の逝去は了解した。中城王子へ王位継承を間違いなく仰せつけ、国中の仕置にいっそう念を入れるよう命じるように。

  九月二十五日

公務は全て終了した。928日、藩主が諏訪仲右衛門を派遣して帰国の命を伝え、国分煙草1箱(20斤)・鰹節1箱(20塊)・白麻1箱(30束)を特賜した。1022日、鹿児島を出航し、山川に到着。24日、検査を済ませ、翌日出航し、116日に那覇に到着して復命した。11日に鳳彩の帰国を祝賀して、国王が特使を派遣し御花・御玉貫を下賜した。また王世曾孫の尚敬も御花・御錫を下賜した。17日には聖旨(国王の詔)を蒙り、安駄(三司官以上の乗る籠)を許された。1710216日、知行40石を加増され合計80石となる。318日、母の章氏が司雲上按司となり、扶持3石(米2石・雑穀1石)・儀者1人・忰者3人を賜った。

◇焼失した首里城を修復◇

171091日、去年首里城が焼失したので修復のための総奉行に任じられる。この時の同僚は、毛氏伊良皆親方盛誠で、座敷奉行は夏氏松田親雲上賢宏(後に毛氏安里親雲上安、さらに穎氏比屋根親雲上惠深に代わる)・向氏恩河親雲上朝員(後に東氏奥間親雲上政員、さらに向氏玉城里之子親雲上朝綱に代わる)、石奉行は毛氏高嶺里之子親雲上盛昌である。1012日の吉日に着工した。なお171153日に、国王が江戸から欽賞された物件として、母の章氏司雲上按司が白羽二重1疋を賜った。171232日、国殿(正殿)修復の総奉行に任ぜられた際に、国王から御羽織1領(表は閃緞、裏はト院綢で綿装あり)を賞賜される。

17154月までに国殿・金御殿(くがにうどぅん)・奥御書院(おくごしょいん)・世嬉御殿(よほこりうどぅん)・寄満(ゆいんち)・内原大台所(うちばるおおだいじょ)・西之大台所(にしのおおだいじょ)・南風御殿(はえのうどぅん)・御番所・右左廊下・西御殿・君嬉(きみほこり)・墀上龍柱(ちじょうりゅうちゅう)・欄干・君嬉欄干獅柱を全て竣工した。同年424日に評定所に召され、三司官から「なんじらの国殿修復の功労は甚だ重い。国王(尚敬)は大変悦ばれ、なんじらに賞物を下賜される」と諭される。この時、鳳彩は孫億(中国の有名な画家)の花鳥画1幅、綿子3把を下賜され、これらは他の人への頒賜品より良い物であった。また同年、国王が江戸から欽賞された物件として、母の章氏司雲上按司が紕羽二重1疋を賜った。

※この再建工事の際、琉球は薩摩に援助を要請し、材木19525本を提供された。

◇王府の諸役を勤める◇

1716514日、鳳彩は、向氏伊江按司朝叙・向氏松村按司朝睦・向氏摩文仁按司朝寄・向氏玉城按司朝孟・向氏東風平按司朝資・馬氏宮平親方良康・馬氏名護親方良直・馬氏与那原親方良義・毛氏沢岻親方盛昌と共に、王命を受け、順番で御書院における清談の席に侍すことになった。但し鳳彩は国殿修理の任務のため、工事期間の勤番は免除された。

171862日、尚純公十三年忌祭および尚益王の七年忌祭のため御茶御殿奉行に就任する(同僚は孟氏宇栄原親方宗恒であった)。17181011日、寺社奉行に就任する。171962日、尚寧王の百年忌祭のため御茶御殿奉行に就任する(同僚は毛氏識名親方盛誠であった)。1721108日、宗門手札改奉行に就任する(この時の同僚は尚氏北谷王子朝騎・向氏湧川親方朝略であった)。1723917日、西平等の大与頭に就任する。

◇来琉した冊封使の応対にあたる◇

 1719年に来琉した尚敬王の冊封使(正使・海宝、副使・葆光)としばしば交流した。家譜には何も記されていないが、葆光の著した『中山伝信録』には「察侍紀官・向鳳彩(瑞菴)」が正使に贈った漢詩一編が収録されている。また葆光の漢詩集である『海舶集』にも鳳彩に贈られた数首の漢詩が収録されており、その内容から葆光は首里の下儀保村にあった鳳彩の屋敷を訪問し饗応されていたことが分かる。

 

【十世】10 向宣謨(せんぼ)

今帰仁王子。童名・思徳金。名乗・朝忠(「忠」の字が禁止されたので「義」に改める)。字・廷烈。鳳彩の長男。康煕411702)年112日〜乾隆521787)年827日。卒寿86歳。妻・向氏湧川按司加那志(童名、真松金。康煕4317041219日〜乾隆5117861010日、卒寿83歳、号・寿沢)。一男五女をもうける。

▼子女

・長女思亀:雍正101732)年閏524日〜乾隆11736)年828日、享年5歳。

・次女思戸金:雍正131735)年313日〜乾隆71742)年56日、享年8歳。

・三女武樽金:乾隆11736)年92日〜乾隆351770)年623日、享年35歳、号・慈心。蔡寅具志頭里之子親雲上得興に嫁ぐ。

・四女真鍋樽金:乾隆61741)年1216日〜乾隆371772)年924日、享年32歳、号・瑞甫。

・五女思次良金:乾隆91744)年216日、真松金と改名。向氏羽地按司朝英に嫁ぐ。

・長男弘猷:毛氏池城里之子親雲上安則の娘・真銭金を娶る。後、向氏松川親方朝応の娘・思戸金と再婚。十一世の項を参照。

◇父を継いで今帰仁間切の総地頭に◇

康煕551716)年86日、欹髻を結い、今帰仁間切運天の名を賜い、運天按司と称する。雍正21724)年921日、7月に父の鳳彩が死亡したため、その追襲を王府に請願し、父と同じ知行80石を許される。本来は逓減の法則(一定の代数で自動的に知行が減少する)により、宣謨の代で知行高は減らされるはずであったが、「今帰仁按司は国内の様々な御奉公に加え、外国へ赴く御奉公も勤めている」ことが評価された。これにより翌日(22)、父の後を継いで今帰仁間切の総地頭職に就任し、今帰仁按司と称するようになる。雍正41726)年226日、首里城の御鎖之間にて国王から御茶を賜る(御数寄の亭主は向氏眞玉橋里之子朝金)。その後御前に召されて末席に着いた。誠に特別の寵恩である(この時、向氏摩文仁按司朝寄ら7名も共に寵恩を受ける)。

◇惣横目・寺社奉行を歴任◇

雍正41726)年1221日、尚稷王の位牌を天王寺から円覚寺に移すため、国王が円覚寺・天王寺・天界寺を行幸して焼香した。その時、寺社奉行の公務が増え通常の業務をこなせなくなったので、宣謨が代行した。雍正61728)年615日、惣横目となり翌年12月まで勤める。しかしその職が寺社奉行に変更されたのでこれと兼務する。雍正81730)年1215日、寺社奉行職に就任する(規定通り役知は20石)。

◇王命に従い堂号を徹淵とする◇

雍正101732)年815日、国王は向氏の家が世を経て細かく分枝し、家俗が互いに異なって、万水一源の気風が損なわれることを慮り、幾世を経ても家俗が等しくなるようにと、向氏の人々に、みな王廟の龍淵の「淵」字を用いて、それぞれの祠堂の名前とすることを命じた。宣謨はこれに従い、すぐに我が堂の名を「徹淵」とした。

ちなみに湧川家の祠堂は「義淵」、小禄家は「善淵」、嘉味田家は「習淵」、伊江家は「雲淵」、喜屋武家は「寧淵」、高嶺家は「安淵」という名前になった。

◇首里城修復や浦添の宮城川の治水に活躍◇

雍正121734)年625日、西御殿が古くなり倒壊寸前だったため重修することになり、惣奉行に就任する。翌年124日に着工し、閏42日に竣工する(同僚は毛氏勝連親方盛友、座敷奉行は翁氏佐久真里之子親雲上忠展)。雍正131735)年84日、祖母の章氏司雲上按司が逝去したため、国王・国母・王妃から供養のため御花・御玉貫を賜る。雍正131735)年1214日、大与奉行職に就任する。同年1224日、母の向氏(宣謨にとっては継母)が司雲上按司となったため、慶賀として国王・国母・王妃から御花・御玉貫を賜る。乾隆11736)年16日、西御殿を重修した功賞により掛物(章聲の山水画)一幅を賜る。同僚も賞賜された。なお章聲は杭州出身の清代の画家で山水画を得意とした人物である。乾隆31738)年61日、川流の改修のため総奉行になる。本来の総奉行は向氏美里按司朝孝であったが病気で辞職したため交替した。818日に浦添間切宮城川を治水した。川には五灘があり、第一灘から第五灘までは法のごとく決修した。第五灘から勢理客橋までは、谷水が奔流し川となるに足らないため、やや修補して奔流の勢いを消しただけである。102日に告成し、翌年628日に病により辞職する。(同僚は毛氏野村里之子親雲上安孝・毛氏手登根親雲上安因・毛氏佐渡山親雲上安長・毛氏伊野波親雲上盛真。)

◇薩摩藩主の室の弔問の使者となる◇

乾隆41739)年1022日、霊龍院(島津吉貴の室)が逝去したため問安・進香の使者となる。121日、奥御書院に召され、国王自らの手で五爪龍緞2疋・錦緞大帯2條を与えられる。123日、右筆役1員・儀者2員を加賜される。昔から按司が国外に使者として赴く際にこれらの役の加賜は無かったが以後定例となった。乾隆51740)年閏54日、国王から首里城の南殿に召され餞宴を賜る。5日、国王から当官が派遣され大平布・焼酒を、内院からも近習官が派遣され大官香・島紬・島紬上布・白細上布・糸綿・焼酒を賜る。国母・王妃もそれぞれ大親官を派遣し大官香・島紬・焼酒を賜う。翌年閏518日、那覇を出洋し、21日に坊津に漂着後、26日に陸路で鹿児島に向かい翌日琉假屋(鹿児島琉球館)へ到着する。船の方は65日に鹿児島に到着した。622日に登城して国書を提出し、23日に福昌寺に赴いて霊龍院に進香した。25日にも登城し、藩主らに以下の品物を献じた。

継豊:蕉布・焼酒・大官香・毛氈・螺点中央卓/内院から青銅花瓶・縐綢

吉貴:蕉布・焼酒・大官香・毛氈・描金大食篭/内院から青銅香炉・縐綢

宗信:蕉布・焼酒・大官香・毛氈・螺点料紙箱・螺点硯箱/内院から手巻・細嫩花蕉布

26日に先例通り福昌寺に参詣した。81日に登城して八朔(旧暦81日)の節句を祝賀した。923日に、名護按司(向朝栄)と共に磯庭園に赴き、御太刀・御馬代銀・繻子・大紅縐紗・花氆氌を献じて吉貴に拝謁し、許可を得て庭園を散策し宴を賜った。また頭巾1個・鼻紙袋1個を下賜された。この時の附役は向氏喜屋武里之子親雲上朝義、与力は翁氏伊舎堂里之子親雲上盛孟、跟隨は向氏思河里之子朝楞だった。その後、吉貴から「毎年微物を献じて聖禧を祝うことを定例とするように」との諭旨を得た。27日に返書と帰国の許可を得、先例通り茶葉20斤・国分煙草20斤を賜った。公務が全て終了したので、1013日に鹿児島を出船して山川に到り、21日に山川から出洋して、25日に帰国復命した(この時の右筆は駱氏呉我筑登之親雲上春倫、儀者は向氏玉城里之子親雲上朝喜・成氏伊江大城筑登之親雲上全相であった)。

◇勤随役を下賜され、さらに安駄を許される◇

乾隆51740)年719日、宣謨は公務を助ける「勤随」役1名を賜った。向氏名護按司朝栄・向氏玉川按司朝雄・向氏小禄按司朝朗・馬氏仲里親方良直もそれぞれ1名を下賜された。以後、按司にこの役が下賜されることが定例となった。同年1219日、大与奉行職に就任する。また聖旨(王命)を受けて安駄(三司官以上の乗る駕籠)を許され、かつ久米具志川間切一年分の按司掛と夫銭を下賜された。

◇町方に消防組織が整備され、その総与頭となる◇

乾隆61741)年929日、総与頭職に就任した。失火の憂はあるのに救火のための役職は設置されていなかったので、宣謨に三隊を設けて救火の任務に備えさせるよう指示が下った(同僚は向氏名護按司朝栄・向氏小禄按司朝朗・向氏喜屋武按司朝寛・向氏具志川按司朝利・向氏美里按司朝昌・向氏安慶名親方朝見・向氏浦添親方朝夷・向氏小禄親方朝寛・向氏喜屋武親方朝良・毛氏米須親方安邑・毛氏座喜味親方盛秀)。

※参考:石井龍太「近世琉球王国の防火」『よのつぢ浦添市文化部紀要』42008年。

◇国王の茶礼に招かれる◇

乾隆61741)年101日、国王が、四美の感があったため、奥御書院に宣謨らを召して自ら茶礼を行った。以前はこの奥御書院で朔望と先王の忌日に国王の上香の礼も行われていたが、今年からこの礼は円覚寺で行うようになったので、この院では茶礼だけが行われるようになった。この日の茶礼の同席者は、尚氏本部王子朝隆、向氏具志川按司朝利、向氏伊野波按司朝恒、毛氏安里親方安明であった。同年1227日、総理内間御殿となり翌年半ばまで勤める。

 

<以下、準備中>

 

【三世】11 向和儀(わぎ)

本部按司。童名・思徳。名乗・朝當。号・一空。二世介昭の次男。嘉靖401561)年〜万歴301602)年510日。享年42歳。妻は不詳。

◇今帰仁間切本部の名を拝領◇

万暦年間に今帰仁間切本部の名を賜る。今帰仁間切に住み、毎年正月11日に中山(首里)に赴き国王に拝謁した。

 

【三世】12 向和礼(われい)

本部按司。童名・真古波津。名乗・朝安。号・花庭。二世介昭の四男。隆慶41570)年〜順治41647)年1225日。享年78歳。妻・思加那。一男一女をもうける。

▼子女

・長男継誠。

・長女宇志掛按司:童名・松比樽。万歴331605)年〜崇禎141641)年1018日。号・月嶺。向氏今帰仁按司朝経に嫁ぐ。

◇今帰仁間切本部の地頭に◇

1619815日、今帰仁間切本部地頭職に就任し、知行30石を賜う。今帰仁間切に住み、毎年正月11日に中山(首里)に赴き国王に拝謁した。

 

【四世】13 向継誠(けいせい)

伊野波按司。童名・樽金。名乗・朝教。号・藍水。三世和禮の長男。万歴281600)年〜順治81651)年627日。享年52歳。妻は不詳。

◇今帰仁間切伊野波の名を拝領◇

万歴年間、今帰仁間切伊野波の名を賜う。今帰仁間切に住み、毎年正月11日に中山(首里)に赴き国王に拝謁した。

 

【七世】14 向従宣(じゅうせん)

与那嶺按司。童名・真三良。名乗・朝隣。六世縄祖の次男。崇禎151642)年17日〜康煕481709)年923日。妻・孟氏阿応理屋江按司。

◇今帰仁間切与那嶺の名を拝領◇

165922日、欹髻を結う。165922日、今帰仁間切与那嶺の名を賜る。今帰仁間切に住み、毎年正月11日に中山(首里)に赴き国王に拝謁した。16931027日、王世孫・佐敷王子(尚益)が薩摩から帰還し、嘉物として五明2・足袋2・小室焼菜器1を賜る。

 

【八世】15 向洪泰(こうたい)

今帰仁里之子親雲上。童名・真市。名乗・朝弘。号・梅岳。七世従憲の次男。康煕21663)年32日〜同311692)年1224日。享年30歳。妻・毛氏真宇志金。

◇王府の諸役を歴任する◇

16771118日、下庫裡若里之子となる。16788月、欹髻を結う(役は同じ)。167962日、尚賢王の三十三年忌祭のため御茶屋当に就任するも、翌年128日に病気により辞職する。168317日、再び下庫裡に入る。1684124日、黄冠に昇る。169041日、王世子・中城王子(尚純公)の与力となる。1691129日、当位に昇る。同日、尚純公の御供大親の代理となる(毛氏汀間親雲上安玄が、王世孫尚益公が薩摩に赴く供となったので、その期間を代行する)。

 

【十一世】16 向弘猷(こうゆう)

今帰仁王子。童名・真蒲戸金。名乗・朝賞。十世宣謨の長男。乾隆2151日〜嘉慶1499日。もとは蔡寅具志頭親方得興の弟の長男で、母親は宣謨の三女の思武樽金である。宣謨に嗣子がなかったため、奏請して嗣子とした。享年54歳。妻・毛氏真銭金(乾隆201116日〜同41214日、享年22歳、号・淑徳)。一男一女をもうける。後妻・向氏岸本按司加那志(童名・思戸金、乾隆23120日〜道光4年閏723日、67歳、号・心鏡)。三女一男をもうける。

<以下、準備中>

 

【十二世】17 向鴻基(こうき)

運天按司。童名・思武大金。名乗・朝英。十一世弘猷の長男。乾隆40224日生。妻・室尚氏上間翁主(童名、思真鶴金。国王尚穆の三女。乾隆41720日生)。

<以下、準備中>

 

【十二世】18 向鴻勲(こうくん)

童名・思次郎。名乗・朝郁。十一世弘猷の次男。乾隆481783)年618日〜嘉慶91804)年415日。享年22歳。妻・向氏伊計親方朝祥の娘・真松。

<以下、準備中>

 

【十三世】19 向維藩(いはん)

童名・真蒲戸金。名乗・朝冨。十二世鴻基の長男。乾隆581793)年120日生。

<以下、準備中>

 

【十三世】20 向維垣(いかん)

童名・真牛。名乗・朝治。十二世鴻基の次男。嘉慶11796)年109日〜道光91829)年819日。享年34歳。妻・毛氏譜久村親雲上安済の娘・真鶴。二男一女をもうける。

<以下、準備中>

 

【十三世】21 向維屏(いびょう)

童名・真三良。名乗・朝康。十二世鴻勲の長男。嘉慶3327日生。本来は向鴻基(運天按司朝英)の第三子。母は尚氏上間翁主。鴻勲の嗣子が無かったので奏請して義子とする。

<以下、準備中>

 

【十三世】22 向維寧(いねい)

童名・松金。名乗・朝信。十二世鴻基の五男。嘉慶81803)年518日生。妻・向氏冨浜親雲上朝睦の娘・真鍋(嘉慶7324日〜道光3616日、享年22歳、号・蓮室)。一男一女をもうける。後妻・向氏護得久里之子親雲上朝睦の娘・真嘉戸(嘉慶1144日〜道光11728日、享年26歳、号・善室)。二男をもうける。

<以下、準備中>

 

【十三世】23 向維城(いじょう)

童名・樽金。名乗・朝彝。十二世鴻基の六男。嘉慶101805)年109日生。妻・向氏喜納親雲上朝庸の娘・真牛。一男一女をもうける。

▼子女

長男嘉猷

長女眞鶴:道光91829)年116日〜。

◇世継ぎ(尚育)の御側仕に◇

1819113日、欹髻を結う。1824121日、若里之子に叙せられ、叙任を朝廷に拝謝した際に、国祖母と国妃からそれぞれ御玉貫を下賜される。1827519日、王世子・尚育の御側仕となるも、1829518日に病気のため退職する。1831121日、黄冠に叙せられる。

 

【十三世】24 向維孝(いこう)

童名・思亀。名乗・朝持。十二世鴻基の九男。嘉慶161811)年1223日生。

◇若里之子に叙任◇

1825810日、欹髻を結う。1829121日、若里之子に叙せられる。

 

【十四世】25 向宣猷(せんゆう)

童名・思武太。名乗・朝寛。十三世維垣の長男。嘉慶201815)年6月日生。

◇欹髻を結う前に小赤頭・小姓となる◇

1822725日、下庫理の小赤頭となる。29日に拝謝した際、国祖母・国妃が女官を派遣し御玉貫を下賜した。182559日、御書院の小赤頭となる。182587日、御書院童子の御小姓となり若里之子に叙せられる。同日朝廷に拝謝した際に、国王・国祖母・国妃が使者を派遣してそれぞれ御玉貫を下賜した。182985日、欹髻を結い、朝廷に拝謝した際、国王が使者を派遣して御玉貫を下賜した。

 

【十四世】26 向世忠(せちゅう)

童名・思武太。名乗・朝敕。十三世維寧の次男。道光61826)年29日生。妻・尚氏宮平翁主(童名・真加戸樽金、国王尚灝の十五女、道光759日〜)。

 

【十四世】27 向世孝(せこう)

童名・真蒲戸。名乗・朝珍。十三世維寧の三男。道光71827)年123日生。

 

【十四世】28 向嘉猷(かゆう)

童名・思武太。名乗・朝柱。十三世維城の長男。道光71827)年520日生。

 

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